野安繹《しげのやすつぐ》先生が来られたのであるが、やはり水本の方を慕うが上に、東京の見物もしたいという希望もあるので、薩藩人を始め、他の藩々の人もイッソ水本の教授せらるる昌平学校へ行こうということになった。私も山本公用人にこれを相談して許可を受けたから、他の学生と共に東京へ行くことになった。尤も水本先生は少し先へ出発されるので、走り井の茶屋まで一同が送って行ったが、先生に兼て馴染の三本木芸子なども数人送って来て、酒宴が開かれてなかなか賑かであった。それから見送りがすんで相国寺へ帰る途中寺町を通ったが、ある場所であちらこちらと人立ちがして何だかつぶやいていて変であったので聞いて見ると、今横井平四郎氏が誰とも知れぬ者に殺されたということなので、もう死骸は勿論血なども見えていなかったが、有名な人の凶事にわれわれも驚いた。
 京都の話しはまずこれだけで、われわれもいよいよ東京へ出発することになったが、同行者は多く薩州人で、他に一、二の他藩人もいた。而して塾長の小牧善次郎氏はこれも史官を拝命して陛下の御東幸に供奉することになったので、あとの塾は重野先生と三、四の学生のみが残ってガランと淋しくなった。私は安政年間十一歳で藩地へ帰った以来、再び見る江戸否東京であるから一入《ひとしお》勇ましく旅行したが、その頃はまだ幕府時代のままで、五十三駅の駅々には問屋があって、それに掛合って馬や駕や人足も出してもらった。尤も書生のことであるから多くは歩いて、よくよく疲れると荷馬の空鞍へ乗って聊か助かる位であった。が、予て私は健足だから、別に苦しくもなかった。宿屋は一行の大勢で泊り込むので、相変らず酒を飲んで雑談に夜を更かしなかなか面白かった。一つ記憶に残っているのは、何処の宿であったか忘れたが、朝早く店先で宿の女房などが騒ぐ声がする、私は何心なく行って見ると、抜身の手槍を持った侍が突立っていて、宿の女房は『ここは薩州様のお宿であります。』と繰返し言っていた。なお私の外にも同行者が段々起きて来て、そこへ列《なら》んだので、右の侍はそのまま帰って行った。聞いて見るとそれは久留米藩の侍で、それらの数人がこの駅へ泊って、出立の際問屋の応接のしぶりが悪かったか何かで、例の気荒な九州武士の感情に障り、直ちに抜刀したから、問屋の役人は皆逃げ出した、それをあちらこちらと追掛けて、そこで私等の宿へも捜索に来たの
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