は賄《まかない》を呼起して残飯を大鍋へ叩き込んで、それへ葱大根などを切交えて、それを啜り合うのである。酒は欲しいけれども多く得られなかった。そんな事で夜中もガヤガヤ騒ぐが、水本先生は少しも叱らなかった。また一定の教授時間があるというでもなく、時々書生を呼集めて、粗末な肴ながらも酒を振舞う。先生ももとより酒好きであったから、塾生等も何ら憚ることなく酒を飲んだ。私は藩地を出るまでは全くの下戸でツイ三杯も飲めばもう嘔吐するという位であったのだが、この塾生の多数に感化されて、いつの間にか飲み覚え、一合位は傾けることになった。尤もこうして自分も多少の気焔を吐かねば、他の人々と共に同塾が出来ないからである。しかし感心なことには、薩摩人はいい合わしたように他藩人に対すれば頗る温和に接して少しも圧迫することなく、むしろ懐柔しようという風であった。そこで私も別に居苦しきこともなく、また学力や詩才だけは段々と認められることにもなったから、日々面白く暮していた。
一体牛肉を食うということは昔は無かったので、江戸でこそ輓近《ばんきん》西洋通の人は多少食ってもいたが、京都ではまだ四ツ足だといって汚らわしいものとしていた。しかるに薩州人はこの牛肉を好み食ったので、それを売る者が邸前へ幾所にも蓆《むしろ》を布《し》いて切売をしていた、これは皆穢多である。その他鴨川の川原でもそこここに葦簀囲いの牛肉販売店があった。これも薩州人を始め諸藩の荒武者を得意としていたのである。なおこの穢多の住居であるが、西京にも似ず三条の橋を東へ渡ると、大通のじき裏町に穢多町というがあった。そこでは既に牛鍋を食わす店があって、飯でも酒でも売っていた。この事は水本塾の人々の話にも上ったが、誰一人まだ穢多町へ行って牛鍋をつつこうという者はなかった。そこで私は夙よりハイカラになっていて、穢多も同じ人間だと理解していたから一ツこの穢多町の牛鍋を食って来て、薩摩隼人を驚かしてやろうと、或る日単身でそこへ行ったが、随分狭くて汚ない家であったけれども我慢して坐り込んで、牛鍋を命じなお酒や飯を命じた。そうして食っては見たが、実の処穢多の家だと思うと胸の工合がよくないが、ここが辛抱だと思い、酒力を借りて肉も二鍋、飯も二、三椀はやった。そこで水本塾へ帰って来て、今日はかくかくの事をした、これから諸君とも同行しようといったが誰も応じる者が無
前へ
次へ
全199ページ中112ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング