となった。
 この頃朝廷には諸藩の重役の職名を一定されて、執政参政というものを置かれたので、我藩でも家老は総て執政となり、参政に当る職はこれまで無いのだから、新に抜摘を以て命ぜられることになり、私の父も参政となった。また父と反対党とも目されていた戸塚助左衛門も同職となった。この戸塚は去年要路者排斥建議の殆ど主謀であったから、行為不穏というのでこれも要路者の責罰と共に責罰されて目付願取次となっていたが、その頃或る夜白衣のままで私の宅へ来て、父とは旧同僚でもあった辺から、一個人としての打解けた談をした。父ももとよりそこは同じ襟懐だから、長い時間膝を交えて談し合った。ここらはちょっと面白い交際であったのだが、料《はか》らずまた職務上でも坐席を並ぶることになったのだ。なお父の役については、前にいった勘定奉行になって、間もなくまた目付役に復していたのだが、この度家老に次ぐ重職となったので、私の一家は俄に家来なども多くなるし、家内が総て御歴々生活をすることになった。尤もこの年の七月に曾祖母も亡くなっていたので、今は継母と末弟彦之助と父と私とのみになったのである。
 この曾祖母は向井氏で藩では有名な軍学者三鶴の孫だが、戸主たる兄が或る不心得から家名断絶となって、実兄の竹村家に養われ、そこから私の家へ嫁したのである。しかるに向井家断絶より六十余年後、ちょうど私が十一歳で江戸から藩地へ帰った時、右の兄なる人が八十以上の高齢でまだ生きていて、三津浜に潜かに住んでいたが、絶えて久しき妹に面会がしたいと人を以て申越した。すると曾祖母は、『家名を汚した人には生前に逢う心がない。』と毅然として拒絶した。女ながらこんな気性の人で、亡くなったのは八十九歳、それまで小病もなく、時々煩うのは溜飲位であった。而してその終りは全くの老衰で、何の苦痛もなく両手を胸上に合して眠るが如く逝《ゆ》いた。その状態は今も私の目に残っている。
 この年の末に私は小姓そのままで、経学修行として京都へ行けとの命があった。而して明教館からも七等に進められた。そこで私はいよいよ藩地外で漢学生々活をすることになったので勇ましく出発した。この頃従来松山藩へ幕府から与えている領地家督相続の証として黒印ある書面(即ち将軍の御判物)悉皆を朝廷へ納付せよとの御沙汰があったので、それを入れたる長持を私がこの京都行のついでを以て保護して行けと
前へ 次へ
全199ページ中110ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング