も恭順を表せられた上は、藩士内に党派などがあっては土州長州へ対して聞えも宜しからぬと、去年責罰された家老初めも総てそれを赦されて、あるいは役付をする事にもなった。そこで私の父は勘定奉行といって、財政の主任になった。また私も再び小姓を申付けられて、今度は前藩主勝成公の側付となった。つまらぬ事だが、私は小姓の再勤であるにもかかわらず、今度は総ての人の末席となった。それは父たる君公の側付の小姓が子たる君公の側付となれば、前の座席をそのまま持込むのであるが、子たる君公の側付が父たる君公の側付となれば、再勤と否とにかかわらず皆末席となるのが慣例なのである。そこで私は遥か後に小姓となった者よりも下に付いて働くことが何だか口惜しいように思った。けれどもこの小姓再勤を、私を愛した祖母に聞かせたら、どの位喜ぶかも知れぬのだに、去年亡くなったのを残念に思った。
 右の如く恭順中であるにかかわらず、藩庁は藩士の進退をするし、また家禄等も、最前いった人数扶持の制法で渡した。それから土州長州両軍の滞在費は総て我藩で支弁せねばならぬ、これがなかなかの物入りであった。また各郡の民政等は既に土州が占領したる上は、土州で扱わねばならぬのだけれど、やはり我藩の代官役に扱わせていた。ただ処々に立ててあった高札だけは、松山藩とあるのを、土州藩と改めてしまった。そうして松山城下は勿論土州の直接管理であったが、なかなか軍規は厳粛、少しも町方を凌虐するようなことはなかった。或る時土州の足軽位な軽輩の者が、古町の呉服屋で買物をして、僅の金を与えて立去り、即ち押買いをしたことがあったが総督はこれを聞くと直ちに斬罪に行って、その首四個を北の城門の外の濠端に晒した。
 しかるに長州軍は我藩地へ来たは来たものの、土州に先を越されているから、僅に三津浜と総ての島方を占領したまでである。そうして我藩の士民も、特に土州には親しむが、長州は余所《よそ》にしているような風もあるので、長州は少し妬ける気味もあったろうか。
 そこで我藩は既に恭順を表した上は一日も早く朝廷の御沙汰のあるのを待っている。また段々と聞く所では、徳川家始めその他の朝敵となった藩々も、奥羽をかけていずれも恭順を表することになったので、最早佐幕主義貫徹の希望もなくなるし、この上はひたすら藩の安全を図る外はないという事に多くの人心が成行いた。しかるに突然朝廷から土
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