たが、もう大丈夫ということになっていた。
 これは少し前の出来事だが、私と同じ連坐して目付願取付となった野口勇三郎と二人は、藩から洋学修行として江戸表へ行けとの命があった。窃に聞けば、これは世子の思召で、私どもの才を惜み、父の責罰中ではあれど、特にこの恩命を下されたのであるらしい。また多少は久しく輔佐となっていた父に対しても、間接に慰藉されるお心でもあったろうか。さすれば私はこれに対して大に奮発し、この学を十分研究すべきはずであったが、漢学仕込みの私の頭は何だかまだ夷狄の学問を忌み嫌い、その他家庭の事情にもほだされたので、遂に平常信仰する彼の大原先生に縋って、右のありがたい恩命を辞してしまった。そういうと可笑しいが、学才には富む私だから、この慶応時代から外国の学問をしていたら、爾来かなりの大家にはなってはいよう。しかしそのため今日の俳人鳴雪とはなっているかどうか。呵々。
 少し遡っていうが、藩内の紛議やその他世間の状態も段々と劇変するので、藩主の温和なる性質では、もうそれらに直接することが厭わしくなられた。これに反して世子は、勇敢の気性で、進んで難局にも当りたいという風であったから、遂に藩主は世子に世を譲りたいと思い立たれその旨を幕府に出願された。そして、それが聞届けになるべき様子が知れたので、予《かね》て朝廷と幕府のお召もあったから旁《かたがた》、世子は上京せられることになった。そこで幕府はいよいよ藩主の退隠と世子の家督相続を聞届けられて、同時にこれまで代々隠岐守と称せらるるのを、特に伊予守と称せよとの命があった。かつ同時に老中上席に列せよとの命もあった。老中上席といえば、往年桑名の楽翁公が十一代将軍の時、この職に当られて以来中絶していたのを、この度我が世子に命ぜられたので、それだけ幕府から、信任を得られたのである。世子はこれまでも、幕府の重職たる会津侯や桑名侯と常に出遇って時勢を慨し政務を論じ居られたので、かく幕府の施設も困難に赴く際、せめては我が世子を挙げて大いに努力してもらいたいとの両侯の考えもあったろう。けれどもあまりに重任であるからなお退いて考案の上お答をしましょうといって、世子は将軍の御前を退かれ、それから随行の家老の菅五郎左衛門、鈴木七郎右衛門、なぞに謀られたが、何しろモハヤ時勢の挽回は出来かねる際で、なまじいにこの重任を受けられるるは公私共によろし
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