せられたいと迫った。けれども我藩の使者は幕府の指令もあるから、この盟約は断然謝絶した。そこで彼は不満足でなお種々問答もあったが、結局不得要領な談判で、我藩の使者は引取った。従てこれだけではまだ長州方面の警戒は解けないのであるが、前にもいう如く、彼には既に薩州と連合して大なる企ても進行していたのであるから、その後は何事もなく経過した。
 しかるに我藩内では、この長州に対する事件からいわゆる正義派また過激派はいよいよ燃え立って、この際因循派の当局者を厳罰せねばならぬということになり、それに世子の側用達の戸塚助左衛門なども内より指嗾《しそう》したから、馬廻、大小姓の平士組の有志者も加って、大勢が藩主に謁見してこの厳罰の事を申立てた。また最も過激なる輩の如きは、当局者の居宅へ詰め掛けて、割腹を迫り、承知せねば切殺そうという申合までをした。そこで私の父は多少学問もしているから大義名分位も心得ているのであるが、藩主始め家老その他の重役が、藩の立場の危難を慮るがために長州へ内使を立てるということになったので、それにも反対をしかね、その方便も多少時勢の変化を待つためにもなろうと考えていた。しかるにこれまで父は藩政の要部たる目付で、かつ世子の側用達を兼ねていたのであるから、この度の内使一件については父を首謀者位に見ている者もあったらしい。従て何時過激派が宅へ来て父にも危害を加えるかも知れぬという虞《おそれ》もあった。そこで私も万一の際は如何したらよかろうかと考えたが、結局父と共に死ぬる他はない。で、もし父に迫るものがあったら、私は飛出して行ってまずその者らに切付けよう、勿論多勢に無勢だから、反対に切殺されるは知れて居れど、父と共に死ぬるのは子たるの道だと思って、余儀なきながらも決心していた。が、幸にそんな事も無くて済んだ。而して、過激派の建議は大体採用さるることになって、当局者はそれぞれ責罰を蒙った。即ち、家老の奥平山城、奉行の近藤弥一右衛門、大島へ内使に立った代官奥平三左衛門は隠居、目付で上席三人の皆川武大夫、野口佐平太と私の父、及び奥平の副使となった矢島大之進は目付支配を命ぜられて、いずれも謹慎せよとの事であった。そしてそれに関係して右の人の子弟もそれぞれ譴責を受けて、私も小姓を免ぜられて目付願取次となった。常に私を愛している祖母などは、この責罰を驚き悲しんで、『お父さんはともか
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