ることになり、従来の士分以上では不足を生じた。そこで、特に文武の芸勝れた者は、嫡子|及《および》二男三男等も勤仕を命ぜられることになり、武芸の段式で中段以上、学問で六等以上の者は御雇になるということが始まった。これは給料としては一年銀六枚を下さるのみであるけれども、いずれも名誉として勤めた。
 一体戸主以外に嫡子は番入という事があって、幾年目かに廿五歳に達している者はこの番入を命ぜられた。而して親同様に一人前の士分となって、親が死ぬるか隠居をする――六十歳になると隠居するを許された。――までは、別に三人扶持を支給された。またこの外に不時番入といって、不時に番入を命ぜられたが、これは武芸の中段以上、学問の六等以上を、三つ得ている者に限られ、やはり嫡子のみであった。而して二、三男となれば、かような勤仕をする機会がないのみか、一生妻を娶る事も出来なかった。この事は大名旗本及諸藩士も同様であったから、これらの二、三男を冷めし喰いと呼ばれていた。しかるに今度この冷めし喰いが、妻帯とまでは行かずとも、勤仕を命ぜらるる事が、我藩に始まったので、二、三男の喜びは如何ばかりであったろうか。尤も従来二、三男といえども、他家の子のない処へは養子に行く事は出来たから、一生この冷めし喰いでいる者は割合に少なかったのではあった。
 しかるに私は学問では優等生ではあったけれど、この頃の風として同年輩の者は皆或る年数を経た上一様に等を進められたから、まだ六等を貰わなかった。それに武芸の方は劣等生であったので、元服と共に切組格となり、次いで切組とはなったがまだとても中段にはなれない。しかし他の同年輩の朋友は多く武芸の方では中段であるため、段々とお雇になって行く。取残された私は人に対しても恥かしくて気が気でない。この上は撃剣の方で中段を得んものと、この年の下半期には寄宿生でいながら日々橋本の稽古場へ通って人一倍励んでみた。が、半年位の勉強だから、いつも七月と十二月の段式の昇級をさせる時が来ても、私は依然として切組に止まった。元々嫌いな武芸はもうそれだけですっかり気がくじけてその後は勉強をせなくなった。
 その頃藩でもいよいよ戦備をせねばならぬことになったので、軍学をも奨励して、従来あった源家古法の野沢家と、甲州流の某家とに意を嘱して弟子を奨励せしめた。尤もこんな軍法では実用にはならぬのだけれども、藩の
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