いていたから、詩作の上にも、あまり詩人めいた詩らしい詩を取らなかったのである。この訳から私の詩も存外首尾が悪くはなかった。その頃父は江戸や京都あたりに旅行することが多いので、私の詩を作り始めたと聞き、山陽詩鈔を送ってくれた。それを開いてみると、歴史を種に尊王主義の慷慨を詠ったものが多いので、あたかも理窟ぽい私の頭と一致して、詩は山陽心酔者となり、益々慷慨の詩を作った。尤も山陽だけの詩の修辞が出来れば上々だが、私のは随分骨っぽくてまず東湖あたりの口真似に過ぎなかった。
 私の恐れた大原観山先生は、自分だけは申分ない詩を作っていられたにかかわらず、後生を率いるにはやり慷慨的に傾いて、私の詩にも度々よいお点や批評を与えられた。そこで私も信ずる所の先生の下にいよいよこの方面を発揮することになった。だからその以来私の四十六歳で常磐会寄宿舎の監督として、寄宿生正岡子規に引きこまれて俳句を初めるまでの間、詩といえばいつもそんなもののみを作っていた。従って長い間に二千や三千の詩は出来たと思うが、今残っているものを見ると、殆ど全部月並であることに自らも驚くのである。
 寄宿舎には従来年末に忘年会をする例になっていて、常には昼する詩会を夜にして、これを開いた。そこで常の詩文会では出席生徒が順番にその宅から持寄りにする豆煎りを食うのみであるが、忘年会の詩会では、いり豆の外に獣肉の汁をこしらえて飯を食うことになっていた。これらの費用も、生徒が少々ずつ醵出して、幹事が城下の魚の棚の肉店へ買いに行った。尤も猪肉は高いから鹿肉にして、葱《ねぎ》一束位と共に寄宿舎へ持ちかえって、賄方の鍋釜を借りて煮焚きをした、そんなことで詩会席にいるよりも食事の調理に奔走する者が多いから、先生達もこの日に限り早く帰ってしまう。するといよいよ若い者の世界で、一同大元気となり、互に争い合って肉を食い飯を食った。尤も酒は禁ぜられていたけれどなかなか気焔はあがったものである。なお余興として枕探しなどいうものもあった。それは寄宿舎とはよほど隔っている講堂、即ち表講釈も行われて君公も臨席せらるる広い堂であるが、そこへ或る一人が深更廊下を通って、予《か》ねて他の者が隠してある枕を探して持返るのである。これは随分気おくれのするもので、輪講の籤以上中らぬことを希望していた。それに平生憎まれたり軽蔑されたりしている者は、それに乗じて
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