は最初に抜擢せられた一人であった。後年この人が私に向って話したりまた書いたものを見ると、やはり私の父などが多少漢学の智識があったのでこれらの学者を登用した主唱者らしく思われる。藤野は後に藩の権大参事兼公議人となり、大学本校少博士ともなり、また修史館が出来た時にはその編輯官ともなった。号を海南といい、最初幕府の昌平塾の塾頭もして世間の人にも知られていた。文章が得意であったが実務に当る見識や才能も具えていたようである。
大阪へ着いたその晩、藩邸の人々の世話になって、夜船に乗り、翌朝伏見へ着いて或る宿屋に小憩した。前にもいった通り、松山を立って以来感冒に罹っていたが、明石を過ぐる頃から大分発熱して、この伏見に着いた時にはもう体も非常に衰弱していた。折から雨天でもあるし、とても歩行は出来ぬので、駕を雇うて京に入ることにした。この駕は、父の顔もあるから切棒にして人足も三人附けねばならぬので、駕賃も従って高くなる。それで供の僕が心配して異論を唱えるのを私はどうしても駕に乗ると命令した。かように病気をしている私と、僕とがそれらの話をしているのを、宿屋の主婦が聞いたので、頗る同情して私を慰めてくれた。
かくて私は雨を侵して三里の道を駕に乗って京都に入ったが、その頃世子の旅館は、高倉の藩邸は手狭なので、別に寺町の何とかいう寺を借り、それを東海道などの旅行の時の如く本陣と呼んでいた。そして随行の人々は別に近所の寺院を宿にしてこの本陣へ日々交代して勤めていた。因って父もこの随行者のいるある寺にいたので、私はそこへ到着したのであった。しかしその前に世子は既に江戸に行かれたので、右の寺に残っている者は父以下少数の人であった。私は着くや否父の病床に駈込んだが、その時熱をおしていた上に雨の冷気に侵されて、体が麻痺したようになり、ろくろく口も利けぬようになっていた。でも何とか少しばかり見舞を言う。父も私を見てさすがに喜んで、色々温言を与えてくれた。父の病気は幸にもう快方に向い、予後を注意するという位になっていたので、わざわざ看病に行ったけれども、私は何の用もなくなったが、それだけ安心もしたのである。
父は御目附の外御側御用達を兼務していたから、この度の如く世子が京都へ行かれて朝廷や幕府の間に多少の斡旋奔走せらるる際は、別して補佐の責任も重かったため、病気を押した結果、遂に大患にもなったのであ
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