は、聊かの風波があればこれに乗じてなるべく船の動揺を烈しくし、次の港へ着いてはこの暴風ではいつ出船するか分らぬという風を見せるために、港の料理屋で酒を飲み女を買うなどという事もして、つとめて気長き態度を装い、乗客をして散々風波で苦んだ末この船にいつまで居ることかと懸念を生ずる所から、遂には船賃を無駄にしても上陸するという心を起さしめるのである。而してそれらの人を吐出すと同時に船はその日にも出帆するのであった。
 岡山城下は長い町で、ちょうど五月であったから、両側の軒先に幟を立てていた。いずれも見上げるような大きな物で、中には糸を網のように編んでそれへ鯉とか人物とかを貼付けたのもあった。これは江戸にも藩地にも例のない珍らしいものであった。なおそれより進んで姫路の城下、明石の城下もやはり長い町であった。一体、街道筋に当る城下の町は通行の旅客に依て利益を得ようとするので多く一筋町になっている。また郷村へ行ってわざわざ蜿《うね》ったように道の附いている街道もある。これは附近の村をいずれも旅客の通る道筋にしたいというので、こんな道の付けようをしたのであるが、旅客においては実に迷惑千万な話である。こういう事は前にもいった川止などと共に、街道筋の藩々の為すがままに任せてあったから、いかなる大名といえどもその歩かされるままの道を歩かねばならぬのであった。
 私は何でも四日目に兵庫港へ着いた。この間三泊したのだが、二つの宿は忘れて、加古川という宿だけを覚えている。その宿に泊っていると、按摩がやって来て、『御用はありませぬか。』という。私も風邪を押していたので身体がだらしいから一つ按摩をさせて見ようという気になって、させて見るとなかなか心地好いものであった。これが私の按摩の味を知った最初で、それからは旅行をすれば必ず按摩を呼ぶことにしている。今も按摩に対すればこの加古川の宿の事が連想されるのである。今一つ、忠臣蔵の桃井の家老でお馴染の名前だから記憶しているのである。
 途中|斑鳩《いかるが》の駅というを過ぎた時、聖徳太子の由緒の寺があって、参りはせなかったが、かつて見た書物に、『斑鳩やとみの小川の絶えばこそ我が大君の御名は忘れじ』と歌を詠した乞丐《きっかい》が、達磨の化身であったという話があるので、ちょっと私の注意を引いた。また阿弥陀の駅で立派な建石に、『前備中守護児島範長公碑』と記し
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