は腹を一文字に切ってから、尖切を咽へ刺して前へ刎《は》ね切ろうとしたが、切れなかった。そこで自ら手を以て刃を撫でると、刃が反対になっていたので再び抜き取り刃を前にして更に突立て、咽笛を刎ね切って倒れたという事であった。この際これほどの落つきがあるのは容易な事でない。しかるに余の三人は人にたかって置きながら、中には割腹の場合に臨んで臆《おく》れを取り、人の介錯を煩わした者もあったそうである。その中の一人を介錯したのは、当日幸いに傷を免かれた宇佐美という者で、即ち前に述べた私の祖母の里方の甥である。
そこでこの事が藩地へ聞えた時、私の家でも随分と心配した。そして関係者は割腹した者の外も厳罰を受ける法になっていたので、従って宇佐美も隠居を命ぜられ家禄も百二十石を二十石減少せられ、当時男子がなかったので他より養子をさせられて、辛《やっ》と百石で家名だけは取止めたのであった。私はこの宇佐美が帰った時その家へ行って見たが、譴責中は月代《さかやき》や髭を剃ることも出来ぬから、長く伸びた月代で髭も蓬々としていたから、何だか怖く、また衰えた風体をしていたので、気の毒に思った。一時は宇佐美も他の死んだ人々へ対して済まぬから自分も割腹すると云ったのを、他から止められたのだそうな。それから宇佐美の住んでいた邸も召上げられて、城北へ別に悪い邸を賜わる事となった。私もそこへ行って見たが、穢い上に、城山の北の麓の櫓《やぐら》の石垣下なので、その櫓には士分の罪ある者の吟味中囚えて置く牢獄等もあったからなお以て忌わしい感がした。因て私もそれ以来宇佐美へは自然と足が遠くなった。尤も浄瑠璃の丸本は、ちょうどもう見尽してしまった時であった。
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七
これも私の十六歳の時即ち文久二年に、藩主が津藩の藤堂家より養子を貰われ、それが初登城の際より、式部大輔と称せられた。そこで従来の例に依って、その補佐役として『側用達』という役が置かれ、私の父は当藩主の世子の頃その役を勤めた関係もあったから、今度もそれを命ぜらるる事になった。けれども政務の方にも必要なので、ヤハリ目付を本役として側用達は兼勤という事であった。この側用達は役の格式も大分上等に属するもので、即ち中奥筆頭格というに列した。従って、その嫡子たる私においても、それだけの待遇を受ける事になり、まず新年の年賀をする場合にも、今までの大
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