る時は、君臣共に小刀のみである。これは今でも芝居などで誰も見ている事であろう。
 一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜となし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ヶ月に三日《さんじつ》といって、朔日十五日廿八日の祝い日に限り、膳に上ったもので、その他は『オタタ』の売りに来る白魚位を買った。食用にする醤油等も手作《てづく》りであって、麦は邸へ肥取りに来る百姓から代価として持って来る。豆は馬の飼料という名義で馬の有無にかかわらず藩から貰うことが出来る。その麦を煎《い》り、豆を煮たものへ、塩と水とを加え、大きな『こが』という桶に作り込み、その下へ口をつけて醤油を取る。糟《かす》もそのまま飯の菜に充るが、なお糠を混じて搗《つ》いて糠味噌と名付け、そのままにも喰ったが多くは味噌汁にした。これはちょっと淡泊なもので、野菜などを実に入れて食べるとなかなか甘かった。また煙草飲みはこの糠味噌汁を食べぬと脂《やに》が咽に詰るなどといい慣わしていた。衣服は、当時藩から『御倹約の仰出され』という事が度々あって、その条件には男女共に絹布を着てはならぬ、必ず木棉を着よ、また女の簪《かんざし》に金銀を用いてはならぬと言って、真鍮位を用いさせた。尤も婦女子や老人は上着は木棉でも、下着だけは絹物を着ることを許され、なお七十以上になると男女共に柔い物が着られた。その他では医者が常に絹布を纏うことを許されていた。
 かように節約主義を取らしめたのは、当時外国人が来て国内も追々殺伐な風が起り、何時戦争が初まるかも知れぬという用意でもあったが、一方では藩侯も普通の参勤交代等の外に、臨時に特別の出張をも度々せねばならぬ事に成り行いた上に、私の藩では前にもいった如く神奈川の警衛の任に当って、砲台等をも築いていたから、いよいよ藩の費用は嵩《かさ》むばかりで、従って士族等への支給も減少する事になったからである。
 この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの工事が落成したもので、かの有名な勝安房守が未だ麟太郎といっていた頃にそれへ頼んで設計してもらったものである。それでこの砲台は当時比較的新らしい形式に依《よっ》ていて、幕府が築いた品川沖の台場よりもこの方が実用に適っ
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