の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も二間あり、それに準じて居間部屋台所等もカナリ広い。その他門長屋には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので、それに比すれば規模も小さく※[#「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1−94−76]末《そまつ》ではあれど、これが自分の邸だと思うと何だか嬉しい。しかしこの邸は士族屋敷の中では旧い建物で、畳等も汚くなっていたから、祖母や母はこんな汚い所へ住まねばならぬかといって眉を顰めていた。
 その内に、段々と人が来ての話に、この邸は『松前《まさき》引《び》ケ』の邸であろうという事であった。この『松前引ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には加藤左馬助嘉明が住んでいたが、規模が小さいので、この松山へ城替えをした。その時、松前に在った士族邸を、松山へ引いて来て士族を住まわせたのであるが、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち私の旧藩主である。それ故松平家以後は士族屋敷も新築するものが多くなり、寛永から二百年余も経った安政となっては、松前にあった士族邸の存しているものは少なかった。稀にはそれが現存していて、私の父に賜わった邸は、右の『松前引ケ』のものでもあろうかといわれた。それだけ旧いものであった事がわかる。
 この松前からの城移しの事について、ついでながらいい添えて置く事がある。それは松前の風習として漁夫の妻たるものは多く城下その他へ魚を売りに来るが、『ごろうびつ』という桶の中に白魚という魚を入れて、それを頭上に頂いて、『白魚《しらいお》かエー、白魚かエー、』と言って売り歩く。それをオタタと呼んでいた。このごろうびつという物の起りは、加藤家で城移しをする時、士民共にその手伝いをしたが、松前の漁夫の妻は大きな桶に砂利を入れて運んで城移しの御用を勤めた。その御用櫃といったのを後に訛ってこう言ったものだと伝えられている。これは藩地でもこの地に限る風習で、かの大原女が柴を頂いているように、魚を入れた桶を頂いている姿といい、またその売声といい、一種|可笑《おかし》なものである。
 この私の邸は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜
前へ 次へ
全199ページ中52ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
内藤 鳴雪 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング