今日は快晴である。そのためか鶉の声をきかない。姉の命によって唐紙を張る。親骨を皆まぜて仕舞ったので立て付けの終ったのは日没の太鼓が鳴り渡る頃であった。姉と妹とが銭湯へ出かけた留守の独り居が徒然なので節句にとゝのえたと云う雛人形を見せて貰うことにした。
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箱を出る顏忘れめや雛二對 蕪村
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の句を口ずさみながら塵にまみれた箱の蓋を開けて見ていると良さんが迎えに来た。
姉も妹も帰ったので別れを告げて俥上の人となった。晩春の墨田川を眺めるために俥は堤へ上った。その辺にまだ妹が彳んでいるものと思って四顧したけれども見えない。夜のお稽古にでも行ってしまったのであろう。何となくもの淋しさを覚える。対岸には夕焼の残映が漂っている。聲風兄の家は彼の辺かと首を伸ばして見やったけれど解らなかった。墨堤の桜は悉く葉になって一片の落花さえ止めない。俥は家路へ真っ直ぐに辿る。私はふと小松島附近の青蘆が見たくなったので「家につくまでに暮れるでしょうか」と訊くと良さんは「暮れませんよ」と云う、で、早速俥は引き返された。間もなく白鬚も後にして諸会社から吐き出された職工達の芋を洗うようにこみ合う中を縫うて進んだ。
蘆はたまたま家並の間に僅か許り見られるだけで物足りない。夕空には夜の色が静かに滲み出て頭上を掠め飛ぶ蝙蝠の影が淋しい。
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川蘆の蕭々として暮れぬ蚊食鳥
蝙蝠の家脚くゞる蘆の風
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行けども行けども思うような蘆が見られないので引き返そうかと思ったが断行もしかねていた。
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蘆の中に犬鳴き入りぬ遠蛙
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併し、展けた。遂に大蘆原が眼前に展けて来た。私の心は躍った。折しも輝き出した星の色は私の心の喜びの色か。
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行く春や蘆間の水の油色
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思い残すこともなく帰途についた。三圍神社の蓮池には周囲の家の灯影が浮いて蛙が鳴いている。其角堂では今頃何をしているだろうか。
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青蘆に家の灯もるゝ宵の程
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対岸の十二階の灯にも別れを告げて、薄暗い通りを辿って家へ帰った。
留守中に山形の木屑兄の句稿と出雲の柿葉兄の絵ハガキとが来ていた。
[#地から1字上げ]―大正七年六月「俳句世界」掲載―
底本:「決定版富田木歩全集」世界文庫
1964(昭和39)年12月30日発行
底本の親本:「木歩文集」素人社書屋
1934(昭和9年)初版発行
初出:「俳句世界」
1917(大正6)年6月号
※「俥は曳き出された。」の行は底本では天付きになっています。
※「堀る」と「掘る」の混在、俳句のところ以外で使われている旧字「兩」は底本通りにしました。
入力:土倉明彦
校正:小林繁雄
2006年7月18日作成
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