な易筮だが、今日迄の経歴を回顧してみて、未来を推考したところで、所詮かうしたコース以外に、僕の運命の落着く所はないらしい。もう少し年が若かつたら、心気一転、姓名判断の易者にたのんで名でも変へて見る所だが、今ではそんな客気もない。詩人の空想する幸福なんてものは、どうせ現実の世界で実現される筈もないし、僕も今では、たいてい世の中といふものが解つて来たので、まづまづ僕ぐらゐのところが、人間十人並の一生であり、苦楽の損得を差引きして、公平な運命の神様から、平均六〇パーセントを恵まれて居ると思ふので、格別不満とするところもない。
運勢の話が出たから、ついでに気のついたことを言ふが、詩人や文士で、その作品と姓名から受ける聯想のちがふ人は、どうも文壇的に幸運を恵まれないやうである。前にも言つた通り、作家の名前からその作品を表象するのは、心理学上の当然な理由によるのであるが、中には異例的にさうでない場合もある。たとへばその特異な詩風で、大正詩壇に異彩を放つた鬼才詩人の大手拓次君なども、あの妖気をおびた藍色の蟇のやうな詩想や、蛇の卵のやうにぬらぬらと連なつた特殊の詩語や、それから特に、十字架上のキリストのやうに、蒼白で憂鬱の顔をした作者の風貌などを、その詩人としての姓名から表象することは、いかにしても僕には困難である。大手拓次といふ名の字面から浮ぶ聯想は、何かしらがツちりした、骨組の太い、血色の好い、四角張つた人間のやうに思はれる。この同じ詩人は、初期には吉川惣一郎といふ名で作品を発表してゐた。これは全然作り物のペンネームであつたが、字面から受ける印象が、ぴつたりとその詩風の特色と一致し、いかにもよく「名は性を現はす」といふ感じがした。然るに何を感じたのか、後年になつてそのペンネームを廃め、本名の大手拓次で詩を書き出してから、作品と名前との聯想関係が、全くちぐはぐのものになつてしまつた。のみならず不思議なことは、それ以来急に詩情が枯燥して、熱のないマンネリズムに堕してしまつた。そんなことから、この詩人の文壇的地位は甚だ不遇で、折角の稀有な鬼才さへも、殆んど詩壇的に認められないで死んでしまつた。姓名判断の易者に言はせたら、此処で必ず一理窟立てる所だらうが、とに角常識で考へても、作家の名前と作風とが一致せず、表象上に食ひちがつた感じを与へるやうなのは、その人の文壇的運勢上で何となく不
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