とろへ
暗憺として長《とこし》なへに生きるに倦みたり。
いかんぞ故郷に獨り歸り
さびしくまた利根川の岸に立たんや。
汽車は曠野を走り行き
自然の荒寥たる意志の彼岸に
人の憤怒《いきどほり》を烈しくせり。


 波宜亭

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜《はぎ》亭の二階によりて
かなしき情感の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干《おばしま》にさへ記せし名なり。
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――郷士望景詩――
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 家庭

古き家の中に坐りて
互に默《もだ》しつつ語り合へり。
仇敵に非ず
債鬼に非ず
「見よ! われは汝の妻
死ぬるとも尚離れざるべし。」
眼《め》は意地惡しく 復讐に燃え 憎憎しげに刺し貫ぬく。
古き家の中に坐りて
脱るべき術《すべ》もあらじかし。


 珈琲店 醉月

坂を登らんとして渇きに耐へず
蹌踉として醉月の扉《どあ》を開けば
狼籍たる店の中より
破れしレコードは鳴り響き
場末の煤ぼけたる電氣の影に
貧しき酒瓶の列を立てたり。
ああ この暗愁も久しいかな!
我れまさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤獨なり
いかんぞまた漂泊の悔を知らむ。
女等群がりて卓を圍み
我れの醉態を見て憫みしが
たちまち罵りて財布を奪ひ
殘りなく錢《ぜに》を數へて盜み去れり。


 新年

新年來り
門松は白く光れり。
道路みな霜に凍りて
冬の凜烈たる寒氣の中
地球はその週暦を新たにするか。
われは尚悔いて恨みず
百|度《たび》もまた昨日の彈劾を新たにせむ。
いかなれば虚無の時空に
新しき辨證の非有を知らんや。
わが感情は飢ゑて叫び
わが生活は荒寥たる山野に住めり。
いかんぞ暦數の囘歸を知らむ
見よ! 人生は過失なり。
今日の思惟するものを斷絶して
百|度《たび》もなほ昨日の悔恨を新たにせん。


 晩秋

汽車は高架を走り行き
思ひは陽《ひ》ざしの影をさまよふ。
靜かに心を顧みて
滿たさるなきに驚けり。
巷《ちまた》に秋の夕日散り
鋪道に車馬は行き交へども
わが人生は有りや無しや。
煤煙くもる裏街の
貧しき家の窓にさへ
斑黄葵《むらきあふひ》の花は咲きたり。
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――朗吟のために――
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 品川沖觀艦
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