い秋の夕べの物語
水のほとりにしづみゆく落日と
しぜんに腐りゆく古き空家にかんする悲しい物語。

夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた
たよりのない幼な兒の魂が
空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。
もつともせつない幼な兒の感情が
とほい水邊のうすら明りを戀するやうに思はれた。
ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。

あたらしい座敷のなかで 蝶が翼《はね》をひろげてゐる
白い あつぼつたい 紙のやうな翼《はね》をふるはしてゐる


 黒い蝙蝠

わたしの憂鬱は羽ばたきながら
ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。
ああなんといふ幻覺だらう
とりとめもない怠惰な日和が さびしい涙をながしてゐる。
もう追憶の船は港をさり
やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた
草場に昆蟲のひげはふるへて
季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。
ああ私はなにも見ない。
せめては片戀の娘たちよ
おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。


 石竹と青猫

みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黒髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあふむいてゐる
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの青ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああいま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蝋のからだを嗅ぎて弄ぶ。
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい青猫
君よ 夢魔におびえて このかなしい戲れをとがめたまふな。


 海鳥

ある夜ふけの遠い空に
洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる。
かなしくなりて家家の乾場をめぐり
あるいは海にうろつき行き
くらい夜浪の呼びあげる響をきいてる。
しとしととふる雨にぬれて
さびしい心臟は口をひらいた
ああかの海鳥はどこへ行つたか。
運命の暗い月夜を翔けさり
夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが
ああ遠く 飛翔し去つてかへらず。


 陸橋

陸橋を渡つて行かう
黒くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで
はるかな落日の部落へ出よう。
かしこを高く
天路を翔けさる鳥のやうに
ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。


 家畜

花やかな月が空にのぼつた
げに大地のあかるいことは。
小さな白い羊たちよ
家の屋根の下にお這入り
しづかに涙ぐましく 動物の足調子をふんで。
[#改ページ]

[#「停車場之圖」の挿し絵]
 停車場之圖

 無限に遠くまで續いてゐる、この長い長い柵の寂しさ。人氣のない構内では、貨車が靜かに眠つて居るし、屋根を越えて空の向うに、遠いパノラマの郷愁がひろがつて居る。これこそ詩人の出發する、最初の悲しい停車場である。
[#改ページ]


 農夫

海牛のやうな農夫よ
田舍の屋根には草が生え、夕餉《ゆふげ》の煙ほの白く空にただよふ。
耕作を忘れたか肥つた農夫よ
田舍に飢饉は迫り 冬の農家の壁は凍つてしまつた。
さうして洋燈《らんぷ》のうす暗い廚子《づし》のかげで
先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。
このあはれな野獸のやうに
ふしぎな宿命の恐怖に憑《つ》かれたものども
その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈《かさ》がかかる。
冬の寒ざらしの貧しい田舍で
愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。


 波止場の煙

野鼠は畠にかくれ
矢車草は散り散りになつてしまつた。
歌も 酒も 戀も 月も もはやこの季節のものでない
わたしは老いさらぼつた鴉のやうに
よぼよぼとして遠國の旅に出かけて行かう。
さうして乞食どものうろうろする
どこかの遠い港の波止場で
海草の焚けてる空のけむりでも眺めてゐよう。
ああ まぼろしの處女《をとめ》もなく
しをれた花束のやうな運命になつてしまつた
砂地にまみれ
砂利食《じやりくひ》がにのやうにひくい音で泣いてゐよう。


 その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない。
ああ その手の上に接吻《きす》がしたい。
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
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