沖の白浪の上にかへらしめろ
かれにはかれの幸福がある。
ああかくして、一羽の鳥は青空に飛び行くなり。


 冬の海の光を感ず

遠くに冬の海の光をかんずる日だ
さびしい大浪《おほなみ》の音《おと》をきいて心はなみだぐむ。
けふ沖の鳴戸を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか
その乘手等の黒き腕《かひな》に浪の乘りてかたむく

ひとり凍れる浪のしぶきを眺め
海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め
ここの日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さへ
あはれを求めて砂山の影に這ひ登るやうな寂しい日だ
遠くに冬の海の光をかんずる日だ
ああわたしの憂愁のたえざる日だ
かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ
あの大きな浪のながれにむかつて
孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ
わたしの傷める肉と心。


 騷擾

重たい大きな翼《つばさ》をばたばたして
ああなんといふ弱弱しい心臟の所有者だ
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群をみよ。
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつの切なる感情をみよ
明るい花瓦斯のやうな月夜に
ああなんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。


 群集の中を求めて歩く

私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。
群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷ[#「ぐるうぷ」に傍点]だ。
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
大きな群集の中にもまれて行くのはどんなに樂しいことか
みよ この群集のながれてゆくありさまを
ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
人のひとりひとりにもつ愁ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない。
ああなんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いてゆくことか。
ああこの大いなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪の彼方につれられてゆく心もちは涙ぐましくなるやうだ。
うらがなしい春の日のたそがれどき
このひとびとの群は建築と建築との軒を泳いで
どこへどうして流れゆかうとするのか
私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
ああどこまでもどこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい。


 内部への月影

憂鬱のかげのしげる
この暗い家屋の内部に
ひそかにしのび入り
ひそかに壁をさぐり行き
手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。
そこに宗教のきこえて
しづかな感情は室内にあふれるやうだ。

洋燈《らんぷ》を消せよ
洋燈《らんぷ》を消せよ
暗く憂鬱な部屋の内部を
しづかな冥想のながれにみたさう。
書物をとりて棚におけ
あふれる情調の出水にうかばう。
洋燈を消せよ
洋燈を消せよ。

いま憂鬱の重たくたれた
黒いびらうどの帷幕《とばり》のかげを
さみしく音なく彷徨する
ひとつの幽《ゆか》しい幻像はなにですか。
きぬずれの音もやさしく
こよひのここにしのべる影はたれですか。
ああ内部へのさし入る月影
階段の上にもながれ ながれ。


 陸橋

陸橋を渡つて行かう
黒くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで
はるかな落日の部落へ出よう。
かしこを高く
天路を翔けさる鳥のやうに
ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。


 灰色の道

日暮れになつて散歩する道
ひとり私のうなだれて行く
あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道
あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女
その乙女のすがたを戀する心にあゆむ
その乙女は薄黄色なる長き肩掛けを身にまとひて
肩などはほつそりとやつれて哀れにみえる
ああこのさびしく灰色なる空の下で
私たちの心はまづしく語り 草ばなの露にぬれておもたく寄りそふ。
戀びとよ
あの遠い空の雷鳴をあなたは聽くか
かしこの空にひるがへる波浪の響にも耳をかたむけたまふか。

戀びとよ
このうす暗い冬の日の道邊に立つて
私の手には菊のすえたる匂ひがする
わびしい病鬱のにほひがする。
ああげにたへがたくもみじめなる私の過去よ
ながいながい孤獨の影よ
いまこの竝木ある冬の日の街路をこえて
わたしは遠い白日の墓場をながめる
ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて
さびしいありあけの山の端をみる。
戀びとよ 戀びとよ。

戀びとよ
物言はぬ夢のなかなるまづしい乙女よ
いつもふたりでぴつたりとかたく寄りそひながら
おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら
さうして霧のふかい谷間の墓をたづねて行かうね。


 その手は菓子である

そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそ
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