色のない山である。赤城のやうな洋画的の山でもなければ、妙義のやうな文士画風の山でもない。矢張伊香保そのものの感じと同じく中庸的である。その外、伊香保の附近には一寸した滝とか小山とかがあつて、夫婦づれの浴客などがよく散歩するが、快適な散歩に適した所は極めてすくない。軽井沢附近には、如何にも軽快な、そしてどこか冥想的な、如何にも散歩らしい気分のする道がすくなくない――尤もあの辺では、その目的のために、わざわざ並木を植ゑた遊歩地のようなものができてゐる――伊香保には、ほんとの散歩道といふものはない。ただむやみに歩くだけの道ならあるが、散歩といふ感じを特に持つやうな所は附近にない。(勿論、少し人工的園芸を加へれば、容易にさうした情趣を持たすことができる。谷に沿つた林の中などは、道さへつければ可成の遊歩地ができるし、附近の山道なども、ちよつとした手入れと設備でどうにでもなるから。)之れを全体から言へば、温泉としての伊香保は、すべてに於て箱根に劣るが、他の塩原等にくらべれば、よほど優つてゐるやうである。関東地方の温泉では、先づ「好い温泉」といふ部類に属するものであらう。特に私の知つてゐるだけの範囲で言へば、その上位に属して居る。
この温泉の空気を代表する浴客は、主として都会の中産階級の人であるが、とりわけさうした人たちの若い夫人や娘たち――と言つても、大磯や鎌倉で見るやうな近代的な、中凹みで睫毛の長い表情をした娘たちではない。矢張、不如帰の女主人公を思はせるやうな、少しく旧式な温順さをもつた、どこか病身らしい細顔の女たち――である。前に伊香保の愛顧者は女性に多いと言つたが、つまりその女性とはかういつたやうな、中庸的の夫人や娘たちである。不思議に伊香保といふ所は、何から何まで女性的であり中庸的である。
最近、私の友人で伊香保へ来た人には、前田夕暮君と室生犀星君がある。谷崎潤一郎君と始めて逢つたのも此所であつた。この人たちの伊香保に対する批評は概して可もなく不可もなしといふ所であらう。
[#ここから2字下げ]
子持山若かへる手の紅葉まで我はねもとおもふ汝は何ぞと思ふ 万葉集
[#ここで字下げ終わり]
底本:「日本随筆紀行第五巻 関東 風吹き騒ぐ平原で」作品社
1987(昭和62)年10月10日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第八巻」筑摩書房
1976(昭和51)年7月発行
入力:向山きよみ
校正:土屋隆
2010年2月16日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング