一つも行きあたらない。どこも皆面白くない。就中、信州の渋とか湯田中といふやうな百姓めいた温泉、言はば「田舎者の湯治場」といつた感じのする所は何より嫌ひだ。さうした所は、単に温泉町そのものの気分が田舎めいて陰気くさいばかりでなく、周囲の自然そのものからして、妙に百姓じみて感じが重苦しい。私は鮮緑といふやうな明るい感じがすきだから、百姓風のぢみくさい気分は陰気でいやだ。尤も野州の那須のやうに、温泉場としては、代表的な「田舎者の湯治場」でありながら、自然としては極めて明快な高原的眺望をもつた所もある。次でだから言ふが、那須野の自然は実際好い。軽井沢に似て、も少し感じが粗野であるが、それが如何にも処女地といふ新鮮な響をあたへる。どこからどこまで「青春」とか「若さ」とかいふ叙情的の印象がみなぎつてゐる。一寸附近の林の中へ這入つても、雨のやうな緑と、気品の高い青空の影とを感ずる。げにそこには若き日本の若い人の情緒がある。高貴にして教養ある趣味がある。しかもこの新日本的の那須野と対照して、那須温泉そのものの薄暗い感じを思ふのは不快である。何故といつて、あの温泉は、田舎の百姓が湯の隅で念仏を称へたり、不潔な女をひやかしたりするやうな、全然田舎風の空気をもつた浴場であつて、周囲の新鮮な自然と全く不調和であるからである。
併し、田舎風の温泉でなくとも、塩原のやうな所はまた嫌ひである。ああした種類の風景は、もはや時代遅れの趣味に属するもので、近代の若い人には感興がない。どこか南画くさい、古い趣味の美文めいたあの辺の景色は、今日ではむしろ俗である。それにあすこの福和戸《ふくわと》のやうながらんどう[#「がらんどう」に傍点]の温泉、普通の駅路の両側に家が並んだやうな温泉は、どこか埃くさい気がするのと、まとまり[#「まとまり」に傍点]のない不安な気がするので、とても落付いた気分になれない。温泉はやはり山の峡谷のやうな所に、そこだけで一廓をなしてゐなければいけない。その他まだ嫌ひな温泉の種類をあげればたくさんある。伊豆の伊東のやうな、海岸の温泉も嫌ひのものの一つである。すべて海岸の温泉には、温泉らしい情趣がすくない。普通の田舎町らしい――漁師町らしい――気分と、温泉町らしい特異の気分とが不調和に混同して、妙に落付きの悪い安価の印象をあたへる。それに場所も平地であるから、雲霧とか山霧とかいふ温泉
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