トンの失樂園やは、今日に於て既に詩の範圍に屬さない。韻文といふ言葉は、それ自身の響に於て古雅なクラシツクな感じをあたへる。そは時代の背後に榮えた前世紀の文學である。今日我等の新しき地球上に於て、もし現に「韻文」なる觀念がありとすれば、そは從來と全く別の心像を取るであらう。したがつてまた之れが對照たる「散文」も、一つの別な新しい觀念に立脚せねばならぬ。
 しばしば今日の文壇では、自由詩に對する小説の類が散文と呼ばれる。この意味での「散文」とは何を意味するか。自由詩は舊來の意味での韻文でない。在來の觀念よりすれば自由詩は散文である。さらば自由詩に對して言ふ散文とは何の謂か。かかる稱呼は全く笑止なる沒見識と言はねばならぬ。しかしながら今日、韻文對散文の觀念はもはや舊來の如き者でない。自由詩以後、我我の韻律に對する定義は一變した。かつて韻律は拍子(拍節の周期律)を意味した。然るに新しき認識は、拍子がリズムの一分景に過ぎないことを觀破した。拍子以外、尚一つの旋律といふリズムがあるではないか。旋律こそは廣義の意味でのリズムである。かくて我我の「韻律」の概念は擴大された。今日我我のいふ韻律の語意は實に「拍子《テンポ》」と「旋律《メロヂイ》」の兩屬性を包括する概念、即ち「言葉の音樂それ自體」を指すのである。しかも此等の拍子や旋律やが、單に言葉の音韻的配列によつてのみ構成されないことは前に述べた。この點に於ても、我我の韻律の觀念は昔と遙かに進歩した。昔の詩人は單に言葉の形體に現はれた數學的拍節のみを考へた。然るに我我は一層徹底的なる心理上の考察から、形體の拍節を捨てて實際の拍節を選んだ、そしてこの目的から、我等の自由詩の詩學に於ては、單に言葉の音韻ばかりでなく、他の色調や味覺の如き「耳に聽えない拍節」さへも、同樣にリズムの一屬性として認識されて居る。
 かくの如く、今日「韻律」の觀念は變化した。したがつてまた「韻文」の觀念も變化すべきである。今日言ふ「韻文」とは、單に拍子の樣樣なる樣式[#「拍子の樣樣なる樣式」に丸傍点]に於て試みられる押韻律の文章を指すのでない。同樣にまた今日言ふ「散文」とは、その對照としての表現を言ふのでない。今日「韻文」と「散文」との相對的識別は、その外觀の形式になくして、主として全く内容の表現的實質に存するのである。たとへば今此所に二つの文學がある。その一方の表現に於ては、言葉が極めて有機的に使用され、その一つ一つの表象する心像、假名づかひや綴り語の美しい抑揚やが、あだかも影日向ある建築のリズムのやうに、不思議に生き生きとした魅惑を以て迫つてくる。一言にして言はば、作者の心内の節奏が、それ自ら言葉の節奏となつて音樂のやうに聽えてくる。之れに反して一方の文學では、しかく肉感性の高調された表現がない。ここでは全體に節奏の浪が低い。言葉はしかく音樂的でなくむしろ觀念の説明に使用されてゐる。即ち言語の字義が抽象する概念のみが重要であつて、言葉の人格とも言ふべき感情的の要素――音律や、拍節や、氣分や、色調や、――が閑却されて居る。今此等二種の文學の比較に於て、前者は即ち我等の言ふ「韻文」であり、後者は即ち眞の「散文」である。そしてまた此の文體の故に、前者は明らかに「詩」と呼ばれ、後者は「小説」もしくは「論文」もしくは「感想」と呼ばるべきである。
 かく我等は、我等の新しき定義にしたがつて韻文と散文とを認別し、同時にまた詩と他の文學とを差別する。詩と他の文學との差別は、何等外觀に於ける形式上の文體に關係しない。(行を別けて横に書いた者必しも詩ではない、のべつに書き下したもの必しも散文ではない。)兩者の區別は、全く感じ得られる内在律の有無にある。一言にして定義すれば「詩とはリズム(内的音樂)を明白に感じさせるもの」であり、散文とはそれの感じられないもの、もしくは甚だ不鮮明の者である。(故に詩と他の文學との識域はぼかし[#「ぼかし」に丸傍点]である。既に表現に於ける形式上の區別がない。さらば何を以て内容上の本質的定規とすることができようぞ。詩の情想と散文の情想との間に、何かの本質的異別ある如く考ふるは妄想である。詩も小説も、本質は同一の「美」の心像にすぎない。要はただその浪の高翔と低迷である。詩は實感の上位に跳躍し[#「詩は實感の上位に跳躍し」に丸傍点]、散文は實感の下位に沈滯する[#「散文は實感の下位に沈滯する」に丸傍点]。畢竟、此等の語の意味を有する範圍は相對上の比較に止まる。絶對を言へばすべて空語である。我等の言葉は絶對を避けよう。)
 さてそれ故に、今日自由詩に對して言はれる一般の通義は適當でない。一般の通義は、自由詩をさして「散文で書いた詩」と稱して居る。けだしこの意味で言ふ散文とは、過去の韻文に對して名稱した散文である。かかる意味での「散文」は、今日既に意味を持たない。自由詩以後、我等の新しき文壇で言はれる「散文」對「韻文」の觀念は上述の如くである。そしてこの改造されたる名稱にしたがへば、自由詩は決して「散文」で書いたものでなく、また「散文的」の態度で書いたものでもない。自由詩の表現は、明白に高調されたる「韻文」である。新しき意味での韻文[#「新しき意味での韻文」に丸傍点]である。この同じ理由によつて、自由詩の別名たる「散文詩」「無韻詩」の名稱は廢棄さるべきである。かかる言葉は本質的に矛盾してゐる。散文であつて無韻律であつて、しかも同時に詩であるといふことは不合理である。自由詩は決して「散文で書いた詩」でもなく、また「リズムの無い詩」でもない。(今日の詩壇で言ふ「散文詩」の別稱は、高調敍情詩に對する低調敍情詩を指すこともある。この場合はそれで好い。それが「より散文に近い」の語意を示すから)
 およそ上述の如きものは、實に自由詩の具體的本質である。しかしながら次の章に説く如く、自由詩は必しも完全至美の詩形でない。自由詩の多くの特色と長所とは、同時にまたその缺陷と短所である。されば近き未來に於て、或は萬一自由詩の詩壇から廢棄される運命に會するなきやを保しがたい。しかも我等の確く信ずる所は、この場合に於てすら、自由詩の哲學そのもの――リズムに關する新しき解説――は、永遠に不滅の眞理として傳統され得ることである。けだし自由詩の詩壇にあたへた唯一の功績は、その韻律説の新奇にして徹底せる見識にある。
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      自由詩の價値

 自由詩のリズムとその本質に就いては、既に前章で大要を説きつくした。しかしながら「自由詩の價値」に就いては尚多くの疑問と宿題とが殘されて居る。最後の問題として、簡單に一言しよう。
 本來、自由詩の動機は、文藝上に於ける自由主義の精神から流出してゐる。自由主義の精神! それは言ふ迄もなく形式主義に對する叛逆である。「形式よりも内容を」と、かく自由主義の標語は叫ぶ。しかしながら元來、藝術にあつては形式と内容とが不二である。形式と内容とは、しかく抽象的に離して考へらるべきものでない。形式は外殼であり、内容は生命であると考ふる如きは、肉體と靈魂を二元的に見た古代人の生命觀の如く、最も笑ふべき幼稚な妄想に屬する。文藝上に於ける形式主義と自由主義とは、もとよりその本質的價値に於て何等の優劣もない。なぜならば彼等の意識する美は――即ち彼等の趣味は――始から互にその特色を別にする。そしてこの趣味の相異が、各各の主義の分派となつて現はれた。事實はかうである。形式主義とは、空間的、繪畫的の美を愛する一派の趣味である。この趣味の表現にあつては、必然的に形式が重大な要素となる。否、形式の完美が即ち内容それ自身である、之れに對して自由主義とは、時間的、音樂的の美を愛溺する主觀派である。この趣味の表現では何等形式上の美を必要としない。彼等の求めるものは感情や氣分の肉感的發想である。そしてこの要求の故に、彼等は形式美を排斥して所謂内容(感情や氣分)の自由發想を主張する。
 近代に於ける藝術の潮流は、實に形式主義――それは古代の希臘藝術やゴシツク建築やによつて高調された――の衰退から、次いで新興した自由主義の優勢を示してゐる。あらゆる藝術の傾向は、すべて「眼で見る美」よりは「心で聽く美」、「形式の完美」よりは「感情の充實」、即ち一言にして言へば「繪畫より音樂へ」の潮流に向つて流れて居る。かのあらゆる一切の形相を假象として排斥し、ひたすら時間上の實在性を捕捉しようとした象徴主義、藝術上に於ける音樂至上主義を主張した象徴主義の如きも、實にこの時流的自由主義の精神を極端に高調したものに外ならぬ。
 自由詩は實にかくの如き精神によつて胎出された。したがつて自由詩は、本質的に主觀的、感情的、象徴的、音樂的である。自由詩の趣味は、根本的に古典派や高踏派と一致しない。此等の詩派が形式の美を尊重するのは、彼等の内容から見て必然である。彼等にとつて「形式の美」は即ち「内容の美」である。然るに自由詩は、何等空間的の形式美を必要としない。なぜならば自由主義の美は、空間的の繪畫美でなくして時間的の音樂美であり、その形式は「眼に映る形式」でなく「感じられる形式」を意味するから。
 以上の如き精神は、實に自由詩の根本哲學である。この哲學によつて、自由詩は定律詩に戰を挑んだ。これによつて定律詩のあらゆる形式を破壞しようと試みた。確かに、この戰爭は――その優勢なる時代的潮流に乘じて居る限り――自由詩のために有利であつた。一時殆んど定形詩派は蟄伏されてしまつた。しかしながら最近、歐羅巴の詩壇に於てその猛烈な反動が現はれた。かの新古典派や新定律詩派の花花しい運動が之れである。最も致命的な逆襲は、象徴主義そのものに對する一派の著しい反感である。象徴主義にして否定されんか、自由詩の唯一の城塞は根柢から覆されてしまふ。
 自由詩に對する定律派の非難は、それが不完全なる未成品の藝術にすぎないと言ふにある。實例としても、自由詩の多くは散文的惰氣に類して、その眞に成功し、詩としての十分な魅惑を贏ち得たものは、僅かに少數を數へるに過ぎない。しかもその少數の成功も多くは偶然の結果である。これによつて見ても、自由詩は藝術的未成品であると彼等は言ふ。特に新定律詩派の如きは、自由詩を目して明かに過渡期の者と稱して居る。彼等の説に依れば、詩の發育の歴史は、原始の單純素樸なる自然定律の時代から、未來の複雜にして高遠なる新定律の形式に移るべきで、自由詩はこの中間に於ける過渡期の不定形律にすぎない。それは過去の幼稚なる詩形の破壞を目的とする限りに於て啓蒙時代の産物である。それ自身に於ては獨立せる創造的價値を持たないと。もし自由詩にして、單に定律詩形の破壞を目的とし、その意味での自由を叫ぶ以外、それ自身の獨立した詩學を持たないならば確かに彼等の言ふ如き無價値のものであらう。けだし藝術に於ける「型」の破壞は、多くの場合、次いで現はるべき「型」への創造を豫備するからである。
 しかしながら自由詩に對する、一つの最も恐るべき毒牙は、直接我我の急所に向つて噛みついてくる。既に述べた如く、自由詩の特色はその「旋律的な音樂」にある。心内の節奏と言葉の節奏との一致、情操に於ける肉感性の高調的表現、これが自由詩の本領である。故に自由詩のリズムは、自然に旋律的なものになつてくる。旋律本位になつてくる。したがつてまた非拍節的なものになつてくる。即ち格調の曖昧な、拍子の不規則な、タクトの散漫で響の弱いものとして現はれる。しかしてかくの如きは、一面自由詩の長所であると同時に、一面實にその著しい缺點である。およそ自由詩を好まない所の人――自由詩は音樂的でないといふやうな人――は、すべて皆この短所に向つて反感を抱くのである。
 拍節の不規則からくる、このタクトの薄弱な結果は、詩をして甚だしく力のない弱弱しいものにしてしまふ。「自由詩は何となく散文的で薄寢ぼけてゐる」といふ一般の非難は正當である。自由詩にはこの「力」がない。したがつてそれは多く散文的な薄弱な感じをあたへる。之に反して定律詩の強味は、その拍
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