如きものは、自由詩に對する最も根本的の非難である。そこには最も毒毒しい敵意と反感とが示されて居る。しかしこの類の議論は、結局言つて「趣味の爭ひ」にすぎぬ。定律詩と自由詩、古典主義と自由主義とは、本質的にその「美」の對象を別にする。自由詩の求める美は、始より既に「旋律本位の美」である。この趣味に同感する限り、自由詩のリズムは限りなく美しい。しかしてその同じことが、一方の定律詩に就いても言へるだらう。もし我等の趣味が「拍子本位の美」に共鳴しないならば、そは全然單調にして風情なき無價値のものと考へられる。かくの如き論議は、畢竟趣味の相違を爭ふ水かけ論にすぎないだらう。ただ上述のことは、自由詩の特色が一方から見て長所であると同時に、一方から見て短所であるといふ事實を示したにすぎぬ。しかしてこの限りに於ては、別に論議すべき何の問題もない。
そもそもまた自由詩が「過渡期のもの」であつて、未來詩形への假橋にすぎないと言ふ如き説に對しては、此所に全く論ずべき限りでない、新定律詩派の所謂「未來詩形」とは如何なるものか。今日我等の聞くところによれば、そは未だ一つの學説にすぎない。實證なき机上の理論にすぎない。しかして藝術の自由なる創作が、文典や詩形の後に[#「後に」に丸傍点]生れると云ふ如き怪事は、未來に於ても容易に想像を許さないところである、よしそれが實現された所で、かかる種類の細工物は眞の藝術と言ひがたい。さらば今日に於て[#「今日に於て」に丸傍点]我等の選ぶべき唯一の詩形はどこにあるか。けだし我等の自由詩に對する興味は、むしろそれが一つの「宿題」であり「疑問」であり、且つまた「未成品」でさへある所にある。あへて我等は、自由詩の價値そのものを問はないのである。
底本:「萩原朔太郎全集 第一卷」筑摩書房
1975(昭和50)年5月25日初版発行
底本の親本:「青猫」新潮社
1923(大正12)年1月26日發行
※底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目が1字下げになっています。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月14日作成
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