節の明確な響からくる力強い躍動にある。多くの場合、定律詩の感情は、自由詩に比して強くはつきり[#「はつきり」に傍点]と響いてくる。勿論そこには自由詩のやうな情感の複雜性がない。けれども單純に、衝動的に、一つの逞ましい筋肉の力を以て迫つてくる。この事實は、最も幼稚な定律詩である民謠や牧歌の類を取つて見ても明らかである。そのリズムは單純であるけれども「力」がある。強く、逞ましく、直接まつすぐ[#「まつすぐ」に傍点]にぶつかつてくる力がある。然るに自由詩にはそれがない。何と自由詩のリズムが薄弱であることよ、殆んどそれは散文的なかつたるい[#「かつたるい」に傍点]感じしかあたへない。これ皆自由詩が旋律本位であつて拍節本位でないためである。既に述べた如く、旋律は拍節の部分的なもの、言はば「より細かいリズム」である故に、しぜんその感じは纖細軟弱となり、スケールの豪壯雄大な情趣を缺いてくる。この點から見ても、自由詩は全然民衆的のもの[#「民衆的のもの」に丸傍点]でない。民衆のもつ粗野で原始的なリズムは、牧歌や民謠の中に現はれた、あの拍節の明晰な、力の強い、筋肉の強健な、あの太くがつしり[#「がつしり」に傍点]としたリズムである。自由詩のリズムは、むしろ貴族者流の薄弱で元氣のない生活を思はせる。民衆は決して自由詩を悦ばず、また自由詩に親しまうともしないのである。
 自由詩に對する、最も忌憚なき憎惡者は新古典派である。彼等の説によれば、象徴主義は「肉體のない靈魂の幽靈」であり、自由詩はその幽靈の落し兒である。古典派の尊ぶものは、莊重、典雅、明晰、均齊、端正等の美であるのに、すべて此等は自由詩の缺くところである。彼等の趣味にまで、自由詩の如く軟體動物の醜惡を感じさせるものはない。そこには何等の確乎たる骨格がない。何等の明晰なタクトがない。何等の力あるリズムがない。全體に漠然と水ぶくれがして居る。ふわふわしてしまり[#「しまり」に傍点]がなく、薄弱で、微温的で、ぬらぬら[#「ぬらぬら」に傍点]して、そして要するに全く散文的である。けだし自由詩のリズムは主として「心像としての音樂」である故に、いつも幽靈の如く意識の背後を彷徨し、定律詩の如き強壯にして確乎たる魅力を示すことがない。すべてに於て自由詩は不健康であり病弱である。そは世紀末の文明が生んだ一種の頽廢的詩形に屬すると。
 およそ前述の
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