は作者のリズムがよく現れてる」「彼のリズムには純眞性がある」「この藝術は私のリズムと共鳴する」此等の場合に於ける「作者のリズム」「彼のリズム」「私のリズム」は何を意味するか。從來の詩學の見地よりすれば、かかる用語に於けるリズムの意味は、全然奇怪にして不可解と言ふの外はない。けだしこの場合に言ふリズムは、全く別趣な觀念に屬してゐる。それは藝術の表現に現はれた樣式の節奏を指すのでない。さうでなく、よつて以てそれが表現の節奏を生むであらう所の、我我自身の心の中に内在する節奏《リズム》、即ち自由詩人の所謂「|心内の節奏《インナアリズム》」「|内部の韻律《インナアリズム》」を指すのである。さらばこの「心内の節奏」即ち内在韻律《インナアリズム》とは何であるか。之れ實に自由詩の哲學[#「自由詩の哲學」に丸傍点]である。今や我等は、自由詩の根本問題に觸れねばならぬ。
 原始《はじめ》、自然民族に於て、歌《うた》は同時に唄《うた》であり、詩と音樂とは同一の言葉で同一の觀念に表象された。彼等が詩を思ふとき、その言葉は自然に音樂の拍節と一致し、自然に音樂の旋律――勿論それは單調で抑揚のすくないものであつたことが想像される――を以て唱歌された[#「唱歌された」に丸傍点]。この時代に於て、詩人は同時に音樂家であり、音樂家は同時に詩人であつた。然るにその後、言葉の概念の發育により、次第に詩と音樂とは分離してきた。歌詞の作者と曲譜の作者とは、後世に於て全く同人でない。かくて詩は全然音樂の旋律から獨立してしまつた。ただしかし拍節だけが殘された。なぜならば拍節は、旋律に比して一層線の太いリズムであり、實に韻律の骨格とも言ふべきものであるから。そして詩が、本來音樂と同じ情想の上に表現されるものである限り、この一つの骨格だけは失ふことができないから。
 かくして最近に至るまで、詩の表現はこの骨格――言葉の拍節――の上に形式づけられた。所謂「韻律」「韻文」の觀念が之によつて構成されたのである。然るに我我の進歩した詩壇は、更にこの骨格の上に肉づけすべく要求した。骨格だけでは未だ單調で生硬である。我我の文明的な神經は、更に之れを包む豐麗な肉體と、微妙で複雜な影をもつた柔らかい線とを欲求した。言ひ換へれば、我我は「肉づけのある拍節」をさがしたのである。「肉づけのある拍節」それは即ち「旋律」ではないか。かくして一
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