のもの」でないとしても、確實に言つて「旋律的《メロヂカル》のもの」である。
 ここに我等は、所謂「拍子」と「旋律」との關係を知らねばならぬ。先づ之れを音樂に問へ。音樂上で言はれる韻律の觀念は、狹義の場合には勿論拍子を指すのであるが、廣義の語意では拍子と旋律との兩屬性を包容する。即ちこの場合のリズムは「音樂それ自體」を指すのである。この事實は、勿論「言葉の音樂」である詩に於ても同樣である。元來、旋律は拍節の一層部分的にして複雜なものである[#「旋律は拍節の一層部分的にして複雜なものである」に丸傍点]。そは拍子の如く幾何學的圖式を構成しない。しかも一つの「自由なる周期律」を有するリズムである。しかしてそれ自らが音樂の情想であり内容である。それ故「韻律」の觀念を徹底すれば、詩の旋律もまた明白にリズムの一種である。即ち音樂と同じく「詩それ自體」が既に全景的にリズムである。然るに過去の詩人等は、リズムの觀念を拍子の一分景に限り、他に旋律といふリズムの在ることを忘れて居た。自由詩以後我等のリズムに關する概念は擴大された。今日我等の言ふリズムは[#「今日我等の言ふリズムは」に丸傍点]、もはや單なる拍節の形式的周期を意味しない[#「もはや單なる拍節の形式的周期を意味しない」に丸傍点]。我等の新しい觀念では、更により内容的なる言葉の旋律が重視されてゐる。言葉の旋律! それは一つの形相なき拍節であり、一つの「感じられるリズム」である。かの魚の遊泳に於ける音樂的樣式の如く、部分としては拍節のリズムを指示することができない。けれど全曲を通じて流れてゆく言葉の抑揚や氣分やは、直感的に明白なリズムの形式――形式なき形式――を感じさせる。しかしてかくの如きは、實に「旋律そのもの」の特質である。
 かくて詩に於けるリズムの觀念は、形體的の者から内在的のものへ移つて行つた。拍節の觀念は、過去に於て必然的な形式を要求した。然るに今日の詩人等は、必しも外形の規約に拘束されない。なぜならば我等の求めるものは、形の拍節でなくして氣分の拍節、即ち「感じられるリズム」であるから。この新しき詩學からして、自由詩人の所謂「色調韻律《ニユアンスリズム》」「音のない韻律」の觀念が發育した。元來、我等のすべての言葉は――單語であると綴り語であるとを問はず――各個に皆特種な音調とアクセントとを持つて居る。この言葉の音響的特
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