されば我我の讀者は、我我の詩から「拍節的《リズミカル》な美」を味ふことができないだらうけれども「旋律的《メロヂカル》な美」を享樂することができる。「旋律的《メロヂカル》な美」それは言葉の美しい抑揚であり、且つそれ自らが内容の鼓動である所の、最も肉感的な、限りなく艶めかしい誘惑である。思ふにかくの如き美は獨り自由詩の境地である。かの軍隊の歩調の如く、確然明晰なる拍節を踏む定律詩は、到底この種の縹渺たる、音韻の艶めかしい黄昏曲を奏することができない。
されば此の限りに於て、自由詩は勿論また音樂的である。そは「拍子本位の音樂」でない。けれども「旋律本位の音樂」である。しかしながら注意すべきは、詩語に於ける韻律は、拍節の如く外部に「形」として現はれるものでないことである。詩の拍節は――平仄律であつても、語數律であつても――明白に形體に示されてゐる。我我は耳により、眼により、指を折つて數へることにより、詩のすべての拍節を一一指摘することができる。之れに反して旋律は形式をもたない。旋律は詩の情操の吐息であり、感情それ自身の美しき抑揚である故に、空間上の限られたる形體を持たない。尚この事實を具體的に説明しよう。
たとへば此所に一聯の美しい自由詩がある。その詩句の或る者は我等を限りなく魅惑する。そもそもこの魅惑はどこからくるか。指摘されたる拍節は、極めて不規則にして薄弱なものにすぎない。さらばこの美感の性質は、拍節的《リズミカル》の者であるよりは、むしろより多く旋律的《メロヂカル》の者であることが推測される。具體的に言へば、この詩句の異常なる魅力は、主として言葉の音韻の旋律的な抑揚――必しも拍節的な抑揚ではない――にある。勿論またそればかりでない。詩句の各各の言葉の傳へる氣分が、情操の肉感とぴつたり一致し、そこに一種の「氣分としての抑揚」が感じられることにある。(勿論この場合の考察では詩想の概念的觀念を除外する)此等の要素の集つて構成されたものが、我等の所謂「旋律」である。そは拍節の如く詩の形體の上で指摘することができない。どこにその美しい音樂があるか、我等は之れを分析的に明記することができない。ただ詩句の全體から、直覺として「感じられる」にすぎないのだ。
ここで再度「韻律」といふ語の意義を考へて見よう。韻律の觀念は、その最も一般的な場合に於て、常に音その他の現象の「周期的な
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