「こそ」に丸傍点]自由である。無韻律の不定形律――即ち散文形式――は、詩のために自由を許すものでなくして、却つて不自由を強ひるものである。然らば「自由詩」とは何の謂ぞ。所謂自由詩はその實「不自由詩」の謂ではないか。けだし、「散文で詩を書く」ことの不自然なのは、「韻文で小説を書く」ことの不自然なのと同じく、何人《なんぴと》にも明白な事實に屬する。
自由詩に對するかくの如き論難は、彼等が自由詩を「散文で書いたもの」と見る限りに於て正當である。そしてまた此所に彼等の誤謬の發端がある。なぜならば眞實なる事實[#「眞實なる事實」に丸傍点]として、自由詩は決して「散文で書いたもの」でないからである。しかしながらその辯明は後に讓らう。此所では彼等の言にしたがひ、また一般の常識的觀念にしたがひ、暫らくこの假説を許しておかう。然り、一般の觀念にしたがふ限り、自由詩は確かに散文で書いた「韻律のない詩」である。故にこの見識に立脚して、自由詩を不自然な表現だと罵るのは當を得て居る。我等はあへてそれに抗辯しない。よしたとへ彼等の見る如く、自由詩が眞に不自然な者であるとした所で、尚且つあへて反駁すべき理由を認めない、なぜならばこの「自然的でない」といふ事實は、この場合に於て「原始的でない」を意味する。しかして文明の意義はすべての「原始的なもの」を「人文的なもの」に向上させるにある。されば大人が子供よりも、文明人が野蠻人よりも、より價値の高い人間として買はれるやうに、そのやうにまた我等の成長した敍情詩も、それが自然的でない理由によつてすら[#「自然的でない理由によつてすら」に丸傍点]、原始の素樸な民謠や俗歌よりも高價に買はるべきではないか。けだし自由詩は、近世紀の文明が生んだ世界の最も進歩した詩形[#「世界の最も進歩した詩形」に丸傍点]である。そして此所に自由詩の唯一の價値がある。
世界の敍情詩の歴史は、最近佛蘭西に起つた象徴主義の運動を紀元として、明白に前後の二期に區分された。前派の敍情詩と後派の敍情詩とは、殆んど本質的に異つて居る。新時代の敍情詩は、單なる「純情の素朴な詠嘆」でなく、また「觀念の平面的なる敍述」でもなく、實に驚くべき複雜なる叡智的の内容と表現とを示すに至つた。(但し此所に注意すべきは、所謂「象徴詩」と「象徴主義」との別である。かつてボドレエルやマラルメによつて代表された一
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