た風景の乾板から
蒼ざめた影を逃走しろ。


 思想は一つの意匠であるか

鬱蒼としげつた森林の樹木のかげで
ひとつの思想を歩ませながら
佛は蒼明の自然を感じた
どんな瞑想をもいきいきとさせ
どんな涅槃にも溶け入るやうな
そんな美しい月夜をみた。

「思想は一つの意匠であるか」
佛は月影を踏み行きながら
かれのやさしい心にたづねた。


 厭やらしい景物

雨のふる間
眺めは白ぼけて
建物 建物 びたびたにぬれ
さみしい荒廢した田舍をみる
そこに感情をくさらして
かれらは馬のやうにくらしてゐた。

私は家の壁をめぐり
家の壁に生える苔をみた
かれらの食物は非常にわるく
精神さへも梅雨じみて居る。

雨のながくふる間
私は退屈な田舍に居て
退屈な自然に漂泊してゐる
薄ちやけた幽靈のやうな影をみた。

私は貧乏を見たのです
このびたびたする雨氣の中に
ずつくり濡れたる 孤獨の 非常に厭やらしいものを見たのです。


 囀鳥

軟風のふく日
暗鬱な思惟《しゐ》にしづみながら
しづかな木立の奧で落葉する路を歩いてゐた。
天氣はさつぱりと晴れて
赤松の梢にたかく囀鳥の騷ぐをみた
愉快な小鳥は胸をはつて
ふたたび情緒の調子をかへた。
ああ 過去の私の鬱陶しい瞑想から 環境から
どうしてけふの情感をひるがへさう
かつてなにものすら失つてゐない
人生においてすら。
人生においてすら 私の失つたのは快適だけだ
ああしかし あまりにひさしく快適を失つてゐる。


 惡い季節

薄暮の疲勞した季節がきた
どこでも室房はうす暗く
慣習のながい疲れをかんずるやうだ
雨は往來にびしよびしよして
貧乏な長屋が竝びてゐる。
こんな季節のながいあひだ
ぼくの生活は落魄して
ひどく窮乏になつてしまつた
家具は一隅に投げ倒され
冬の 埃の 薄命の日ざしのなかで
蠅はぶむぶむと窓に飛んでる。

こんな季節のつづく間
ぼくのさびしい訪間者は
老年の よぼよぼした いつも白粉くさい貴婦人です。
ああ彼女こそ僕の昔の戀人
古ぼけた記憶の かあてんの影をさまよひあるく情慾の影の影だ。

こんな白雨のふつてる間
どこにも新しい信仰はありはしない
詩人はありきたりの思想をうたひ
民衆のふるい傳統は疊の上になやんでゐる
ああこの厭やな天氣
日ざしの鈍い季節。

ぼくの感情を燃え爛すやうな構想は
ああもう どこにだつてあ
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