術《すべ》もない。私は一切を失ひ盡した。けれどもただ、ああ何といふ樂しさだらう。私はそれを信じたいのだ。私が生き、そして「有る」ことを信じたいのだ。永久に一つの「無」が、自分に有ることを信じたいのだ。神よ! それを信ぜしめよ。私の空洞《うつろ》な最後の日に。
今や、かくして私は、過去に何物をも喪失せず、現に何物をも失はなかつた。私は喪心者のやうに空を見ながら、自分の幸福に滿足して、今日も昨日も、ひとりで閑雅な麥酒《ビール》を飲んでる。虚無よ! 雲よ! 人生よ。
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熱帶地方の砂漠の中で、一疋の獅子が晝寢をして居た。肢體をできるだけ長く延ばして、さもだるさうに疲れきつて。すべての猛獸の習性として、胃の中の餌物が完全に消化するまで、おそらく彼はそのポーズで永遠に眠りつづけて居るのだらう。赤道直下の白晝《まひる》。風もなく音もない。萬象の死に絶えた沈默《しじま》の時。
その時、不意に獅子が眠から目をさました。そして耳をそば立て、起き上り、緊張した目付をして、用心深く、機敏に襲撃の姿勢をとつた。どこかの遠い地平の影に、彼は餌物を見つけたのだ。空氣が動き、萬象の沈默《しじま》が
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