さへ妥協せざる、何物にさへ安易せざる、この一つの感情をどこへ行かうか。落日は地平に低く、環境は怒りに燃えてる。一切を憎惡し、粉碎し、叛逆し、嘲笑し、斬奸し、敵愾する、この一個の黒い影をマントにつつんで、ひとり寂しく陸橋を渡つて行く。かの高い架空の橋を越えて、はるかの幻燈の市街にまで。


 恐怖への豫感

 曠野に彷徨する狼のやうに、一つの鋭どい瞳孔と、一つの飢ゑた心臟とで、地上のあらゆる幻影に噛みつかうとする、あるひと[#「あるひと」に傍点◎]の怒りに燃えついた情慾。牙をむき出した感情にまで注意せよ。自然の慘憺たる空の下では。


 涙ぐましい夕暮

 これらの夕暮は涙ぐましく、私の書齋に訪れてくる。思想は情調の影にぬれて、感じのよい温雅の色合を帶びて見える。ああいかに今の私にまで、一つの惠まれた徳はないか。何物の卑劣にすら、何物の虚僞にすら、あへて高貴の寛容を示し得るやうな、一つの穩やかにして閑雅なる徳はないか。――私をして獨り寂しく、今日の夕暮の空に默思せしめよ。


 地球を跳躍して

 たしかに私は、ある一つの特異な才能を持つてゐる。けれどもそれが丁度あてはまる[#「あてはまる」に傍点◎]やうな、どんな特別な「仕事」も今日の地球の上に有りはしない。むしろ私をして、地球を遠く圈外に跳躍せしめよ。


 宿醉の朝に

 泥醉の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛痛しいところに噛みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髓まで紫色に變色する。げに宿醉の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。我等の生涯に於て、あれらの忌忌しい悔恨を繰返さないやうに、斷じて私自身を警戒するであらう。と彼等は腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤獨の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉つた幸福を眺めさせる。思へ、そこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は眞に生甲斐のある、ただそればかりが眞理であるところの、唯一の新しい生活を知つたと感ずるであらう。しかもまたそ
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