そして故意に話題を轉じ、笑談に紛らさうと努め出した。私はムキになつて腹が立つた。人がこれほど眞面目になつて、熱心に聞いてる重大事を、笑談に紛らすとは何の事だ。たしかに、此奴は自分で知つてるにちがひないのだ。ちやんとその祕密を知つてゐながら、私に教へまいとして、わざと薄とぼけて居るにちがひないのだ。否、この友人ばかりではない。いつか電車の中で逢つた男も、私の周圍に居る人たちも、だれも皆知つてるのだ。知つて私に意地わるく教へないのだ。
「ざまあ見やがれ。此奴等!」
私は心の中で友を罵り、それから私の知つてる範圍の、あらゆる人人に對して敵愾した。何故に人人が、こんなにも意地わるく私にするのか。それが不可解でもあるし、口惜しくもあつた。
だがしかし、私が友の家を跳び出した時、ふいに全く思ひがけなく、その憑き物のやうな言葉の意味が、急に明るく、靈感のやうに閃めいた。
「蟲だ!」
私は思はず聲に叫んだ。蟲! 鐵筋コンクリートといふ言葉が、祕密に表象してゐる謎の意味は、實にその單純なイメーヂにすぎなかつたのだ。それが何故に蟲であるかは、此所に説明する必要はない。或る人人にとつて、牡蠣の表象が女の肉體であると同じやうに、私自身にすつかり解りきつたことなのである。私は聲をあげて明るく笑つた。それから兩手を高く上げ、鳥の飛ぶやうな形をして、嬉しさうに叫びながら、町の通りを一散に走り出した。
虚無の歌
我れは何物をも喪失せず
また一切を失ひ盡せり。 「氷島」
午後の三時。廣漠とした廣間《ホール》の中で、私はひとり麥酒《ビール》を飲んでた。だれも外に客がなく、物の動く影さヘもない。煖爐《ストーブ》は明るく燃え、扉《ドア》の厚い硝子を通して、晩秋の光が侘しく射してた。白いコンクリートの床、所在のない食卓《テーブル》、脚の細い椅子の數數。
ヱビス橋の側《そば》に近く、此所の侘しいビヤホールに來て、私は何を待つてるのだらう? 戀人でもなく、熱情でもなく、希望でもなく、好運でもない。私はかつて年が若く、一切のものを欲情した。そして今既に老いて疲れ、一切のものを喪失した。私は孤獨の椅子を探して、都會の街街を放浪して來た。そして最後に、自分の求めてるものを知つた。一杯の冷たい麥酒と、雲を見てゐる自由の時間! 昔の日から今日の日まで、私の求めたものはそれだけだつた。
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