ぽい硝子の中で、藍色の透き通つた潮水《しほみづ》と、なよなよした海草とが動いてゐた。そしてどこの岩の隅隅にも、もはや生物の姿は見えなかつた。蛸は實際に、すつかり消滅してしまつたのである。
 けれども蛸は死ななかつた。彼が消えてしまつた後ですらも、尚ほ且つ永遠にそこに[#「そこに」に傍点◎]生きてゐた。古ぼけた、空つぽの、忘れられた水族館の槽の中で。永遠に――おそらくは幾世紀の間を通じて――或る物すごい缺乏と不滿をもつた、人の目に見えない動物が生きて居た。


 鏡

 鏡のうしろへ※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11、292−2]つてみても、「私」はそこに居ないのですよ。お孃さん!


 狐

 見よ! 彼は風のやうに來る。その額は憂鬱に青ざめてゐる。耳はするどく切つ立ち、まなじりは怒に裂けてゐる。
 君よ! 狡智[#「狡智」に傍点◎]のかくの如き美しき表情をどこに見たか。


 吹雪の中で

 單に孤獨であるばかりでない。敵を以て充たされてゐる!


 銃器店の前で

 明るい硝子戸の店の中で、一つの磨かれた銃器さへも、火藥を裝填してないのである。――何たる虚妄ぞ。懶爾《らんじ》として笑へ!


 虚數の虎

 博徒等集まり、投げつけられたる生涯の機因《チヤンス》の上で、虚數の情熱を賭け合つてゐる。みな兇暴のつら魂《だましひ》。仁義《じんぎ》を構へ、虎のやうな空洞に居る。


 自然の中で

 荒寥とした山の中腹で、壁のやうに沈默してゐる、一の巨大なる耳を見た。


 觸手ある空間

 宿命的なる東洋の建築は、その屋根の下で忍從しながら、甍《いらか》に於て怒り立つてゐる。


 大佛

 その内部に構造の支柱を持ち、暗い梯子と經文を藏する佛陀よ! 海よりも遠く、人畜の住む世界を越えて、指のやうに尨大なれ!


 家

 人が家の中に住んでるのは、地上の悲しい風景である。


 黒い洋傘

 憂鬱の長い柄から、雨がしとしとと滴《しづく》をしてゐる。眞黒の大きな洋傘!


 國境にて

 その背後《うしろ》に煤煙と傷心を曳かないところの、どんな長列の汽車も進行しない!


 恐ろしき人形芝居

 理髮店の青い窓から、葱のやうに突き出す棍棒。そいつの馬鹿らしい機械仕掛で、夢中になぐられ、なぐられて居る。


 齒をもてる意志

 意志! そは夕暮の海よりして
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