も、私の場合は瞑想《めいそう》に耽《ふけ》り続けているのであるから、かりに言葉があったら「瞑歩」という字を使いたいと思うのである。
 私はどんな所でも歩き廻る。だがたいていの場合は、市中の賑《にぎ》やかな雑沓《ざっとう》の中を歩いている。少し歩き疲れた時は、どこでもベンチを探して腰をかける。この目的には、公園と停車場とがいちばん好い。特に停車場の待合室は好い。単に休息するばかりでなく、そこに旅客や群集を見ていることが楽しみなのだ。時として私は、単にその楽しみだけで停車場へ行き、三時間もぼんやり坐っていることがある。それが自分の家では、一時間も退屈でいることが出来ないのだ。ポオの或る小説の中に、終日群集の中を歩き廻ることのほか、心の落着きを得られない不幸な男の話が出ているが、私にはその心理がよく解るように思われる。私の故郷の町にいた竹という乞食《こじき》は、実家が相当な暮しをしている農家の一人息子《ひとりむすこ》でありながら、家を飛び出して乞食をしている。巡査が捕えて田舎《いなか》の家に送り帰すと、すぐまた逃げて町へ帰り、終日賑やかな往来を歩いているのである。
 秋の日の晴れ渡った空を見ると、私の心に不思議なノスタルジアが起って来る。何処《どこ》とも知れず、見知らぬ町へ旅をしてみたくなるのである。しかし前にいう通り、私は汽車の時間表を調べたり、荷物を造ったりすることが出来ないので、いつも旅への誘いが、心のイメージの中で消えてしまう。だが時としては、そうした面倒のない手軽の旅に出かけて行く。即ち東京地図を懐中にして、本所《ほんじょ》深川の知らない町や、浅草、麻布《あざぶ》、赤坂などの隠れた裏町を探して歩く。特に武蔵野《むさしの》の平野を縦横に貫通している、様々な私設線の電車に乗って、沿線の新開町を見に行くのが、不思議に物珍らしく楽しみである。碑文谷《ひもんや》、武蔵|小山《こやま》、戸越《とごし》銀座など、見たことも聞いたこともない名前の町が、広漠たる野原の真中に実在して、夢に見る竜宮城のように雑沓している。開店広告の赤い旗が、店々の前にひるがえり、チンドン楽隊の鳴らす響が、秋空に高く聴《きこ》えているのである。
 家を好まない私。戸外の漫歩生活ばかりをする私は、生れつき浮浪人のルンペン性があるのか知れない。しかし実際は、一人で自由にいることを愛するところの、私の孤独癖
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