てるものは、常に「詩人の感情」であつて「小説家の感情」でない。換言すれば、あれらの文章の根柢となつてるものは、一の主観的なる切実の訴へである。僕は小説家のするやうに、それによつて他を描くのでなく、自分自身の詩を訴へてゐるのである。例へばあの芥川[#「芥川」に丸傍点]君の追悼文で、僕が何を熱情し、何を人生について憂鬱し、且つ欲情し、且つ訴へ嘆いてゐるかを、あれについて読み得る読者は、僕の「詩」を知り得たのである。そして僕の文章から常に、僕の詩を読み得るものは、僕の真の理解者であり読者である。反対に、僕の詩について心を触れ得ず、詩の精神を理解できない所の人にとつて、僕の文章は不可解であり、時には全く意外なる、反対の意味にさへ曲解される。
文藝春秋子の意外な誤解が、結局してこの点にあることがはつきり[#「はつきり」に傍点]解つた。文藝春秋子(僕はそれを以て常識的聡明人の代表と見る。)は、常識的なる限りに於てのみ、聡明な正しき批判を有してゐる。だが「詩」の精神は、常に常識の上に立脚してゐる。僕等が詩を思ふ時は、常に常識を一歩踏みはづし、日常生活の「健全なる判断力」を、どこかで取り落して居るのである。小説家的聡明さ(即ち常識)では、決してどんな詩も作れはしない。否さうした頭脳の中には、詩情そのものが宿らないのである。だからその種の人々には、小説家の書いた文章は解るけれ共、詩人の書いた文章は解らないのだ。そして此所に詩人といふのは、もちろん僕ばかりでなく、一般の詩人についても言ふのである。
かうしたことによつて、僕は常識の価値が甚だ疑はしくなつてきた。常識的聡明は、結果して常識の程度しか理解できない。だから詩人の仲間にとつて「常識ですら」解るものが、しばしば彼等にとつては常識ですら解らない。してみれば常識的聡明といふこと(今の小説家等が唯一の得意とするのはそれである。)は、必しも僕等にとつて恐ろしいものでない。否むしろ低級視さるべき、愚劣な馬鹿馬鹿しいものである。僕は「常識のメンタルテスト」文藝春秋子から悪口されて、始めて常識の実価を知つた。すくなくとも今後の僕等は、常識及び常識的聡明者に対して、詩人らしき内気な恥らひと屈辱とを捨て、もつと大胆に、彼等を侮蔑してかかるであらう。
底本:「日本の名随筆 別巻76・常識」作品社
1997(平成9)年6月25日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第八巻」筑摩書房
1976(昭和51)年7月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月27日公開
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