情する小説家だ――と言つたけれ共、それが何等芥川[#「芥川」に丸傍点]君に対する侮蔑でなく、反対に高い程度の尊敬と愛情とで、あの人の悲壮な精神に感激を込めた言であるのは、常識を有する限り[#「常識を有する限り」に傍点]、だれでもあの文章の読者に解る筈だ。僕は文藝春秋子の毒舌をよんで先づ「常識家の非常識」といふことを考へた。
 所が二月号の同じ雑誌に、同じ文藝春秋子がまた僕の毒舌を、僕の新潮所載の文(室生犀星[#「室生犀星」に丸傍点]に与ふ)について書いてる。それによると、僕のあの文章は室生[#「室生」に丸傍点]君の旧悪をあばいたもので、故意に友人を陥入れ、他人の過去を恥かしめ、以て独り自ら正義を売らうとするものであるさうだ。何たる意外の言だらう。之れにもまた僕は呆然としてしまつた。僕にとつてみれば、室生[#「室生」に丸傍点]君の過去は一の英雄的生活であつた故に、その回想を書くことは、友の伝記における讃美であつた。僕はあの文章の前半を、伝記記者の熱情と讃美で書いた。そしてその精神は、常識を有する限り[#「常識を有する限り」に傍点]、どんな読者にも解る筈だ。僕は室生[#「室生」に丸傍点]君に対して、自己と容れない人生観を争ひ、あくまでその抗議を提出したけれども、かりにもあの文章をよんだものは、その精神が親友に対する熱愛に充ちてることを知る筈だ。他のことはとにかく、あれが友人を陥入れるための、女らしい邪智の悪意で書いたものと解されては、僕として到底がまんできない。世に之れほどひどい曲解があるだらうか。況んやそれによつて僕が正義を売るとは何事だ。いかに六号記事とは言ひながら、之れほどひどく曲解されては、遂に黙つて居られない。
 僕は今迄、自分の書いた詩論や感想が、他から誤解されたことがしばしばあつた。しかし最近文藝春秋子に書かれたほど、自分の文が意外な誤解を受けたのは始めてだ。何故に、どうしてこれほど思ひがけない、不思議な曲解的な意味に、いつも僕の文章が取られるのだらう。僕はその不思議を考へた。そして結局、一つの或る発見に到達した。即ちそれは、文藝春秋子(及び之れによつて代表される常識的聡明人の一般)が、僕等の文学の本質たる「詩」を理解できないからである。
 前の芥川[#「芥川」に丸傍点]君の追悼文でも、今度の室生[#「室生」に丸傍点]君への公開状でも、僕の文章の本質となつ
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