。僕の讀み方によるドストイェフスキイは、心理上でポオと共通し、思想上でニイチェ、ショーペンハウエルと類縁するところの作家であつたが、友人たちの見たドストイェフスキイは、やはり白樺派の人と同じく、人道主義的に見たそれであつた。そこで僕は、自然に思想上で彼等と別れ、雜誌の發行にも興味を失つてしまつたのであつた。丁度その時、僕は處女詩集「月に吠える」を出し、室生犀星君もまた第一詩集「愛の詩集」を發行した。前者の詩篇には、僕の見たド氏の生理的内臟圖が描かれてあり、後者の詩集には、室生君の見たド氏の人道的な肖像が描かれて居た。
僕が出發した當時の文壇は、ドストイェフスキイの名が最も高く呼ばれて居り、一つの文壇的流行でさへあつたにかかはらず、事實全く理解されてなかつたのである。單にドストイェフスキイばかりでなく、白樺派の偶像としてあれほど流行したトルストイさへ、少しも本質的には理解されて居なかつた。世界の文豪である大トルストイが、救世軍的人道主義者として擔がれたり、通俗モラルのセンチメンタリストとして、女學生の涙劇的ヒロイズムの對象であつたりしたことを考へると、今から考へて全く馬鹿馬鹿しく滑稽である。ゲーテも、ハイネも、ニイチェも、日本では早くから名が叫ばれて流行し、その文學的概論さへ解らない中に、既に「流行おくれ」となつてバタ屋の紙屑箱に賣られて行つた。昭和三年頃の或る雜誌に、近頃トルストイやドストイェフスキイを言ふのは時代遲れだと書いた人がある。大正九年頃の或る雜誌に、今頃ニイチェを論ずるのは流行遲れで古臭いが云々と書いてあつた。しかも昭和十年頃の最近になつて、それらのもつと古臭いゲーテやハイネが、漸く少しばかり本體を知られて來たのである。
要するに日本の文壇は、過去に於て女學生と中學生との文壇だつた。最近漸く大學豫科の一年生位に入門して來た。そこで初めてドストイェフスキイが、眞の文學的本質によつて理解される機縁が來た。日本の再建される文壇は、再度もはや過去のやうに、流行のハシリを追ふ稚態を止め、正しい認識によつて外國の古典文學を讀むべきである。
底本:「萩原朔太郎全集 第九卷」筑摩書房
1976(昭和51)年5月25日初版1刷発行
1987(昭和62)年6月10日補訂版1刷発行
初出:「ヴレーミヤ 第二號」三笠書房
1935(昭和10)年11月
入力:石波峻一
校正:土屋隆
2010年2月16日作成
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