登らした。十一月下旬、秋の物わびしい午後であつた。落日の長い日影が、坂を登る私の背後《うしろ》にしたがつて、瞑想者のやうな影法師をうつしてゐた。風景はひつそりとして、空には動かない雲が浮いてゐた。
 無限に長く、空想にみちた坂道を登つて行つた。遂に登りつめた時に、眼界が一度に明るく、海のやうにひらけて見えた。いちめんの大平野で、芒や尾花の秋草が、白く草むらの中に光つてゐた。そして平野の所所に、風雅な木造の西洋館が、何かの番小屋のやうに建つてゐた。
 それは全く思ひがけない、異常な鮮新な風景だつた。私のどんな想像も、かつてこの坂の向うに、こんな海のやうな平野があるとは思はなかつた。一寸の間、私はこの眺めの實在を疑つた。ふいに思ひがけなく、海上に浮んだ蜃氣樓のやうな氣がしたからだ。
『おーい!』
 理由もなく、私は大聲をあげて呼んでみた。廣茫とした平野の中で、反響がどこまで行くかを試さうとして。すると不意に、前の草むらが風に動いた。何物かの白い姿がそこにかくれてゐたのである。
 すぐに私は、草の中で動くパラソルを見た。二人の若い娘が、秋の侘しい日ざしをあびて、石の上にむつまじく坐つてゐたのだ。
『娘たちは詩を思つてる。彼等の生活[#「生活」に傍点]をさまたげまい。なぜなら娘たちにとつては、詩が生活の一切だから。けれども僕にとつては! 僕は肯定さるべき所の、何物の觀念でもない!』
 さうして心が暗くなり、悲しげにそこを去らうとした。けれどもその時、背後をふりかへつた娘の顏が、一瞥の瞬間にまで、ふしぎな電光寫眞のやうに印象された。なぜならその娘こそ、この頃私の夢によく現はれてくるやさしい娘――悲しい夢の中の戀人――物言はぬお孃さん――にそつくりだから。いくたび、私は夢の中でその人と逢つてるだらう。いつも夜あけ方のさびしい野原で、或は猫柳の枯れてる沼澤地方で、はかない、しづかな、物言はぬ媾曳をしてゐるのだ。
『お孃さん!』
 いつも私が、丁度夢の中の娘に叫ぶやうに、ふいに白日の中に現はれたところの、現實の娘に呼びかけようとした。どうして、何故に、夢が現實にやつて來たのだらうか。ふしぎな、言ひやうもない豫感が、未知の新しい世界にまで、私を幸福感でいつぱいにした。實にその新しい世界や幸福感やは、幾年も幾年も遠い昔に、私がすつかり忘れてしまつてゐたものであつた。
 しかしながら理性が、たちまちにして私の幻覺を訂正した。だれが夢遊病者でなく、夢を白日に信ずるだらうか。愚かな、馬鹿馬鹿しい、ありふれた錯覺を恥ぢながら、私はまた坂を降つて來た。然り――。私は今もそれを信じてゐる。坂の向うにある風景は、永遠の『錯誤』にすぎないといふことを。


 大井町

 人生はふしぎなもので、無限の悲しい思ひやあこがれにみたされてゐる。人はさうした心境から、自分のすがた[#「すがた」に傍点]を自然に映《うつ》して、或は現實の環境に、或は幻想する思ひの中に、それぞれの望ましい地方を求めて、自分の居る景色の中に住んでるものだ。たとへてみれば、或る人は平和な田園に住家を求めて、牧場や農場のある景色の中を歩いてゐる。そして或る人は荒寥とした極光地方で、孤獨のぺんぎん鳥のやうにして暮してゐるし、或る人は都會の家竝の混《こ》んでる中で、賭博場や、洗濯屋や、きたない酒場や理髮店のごちやごちやしてゐる路地を求めて、毎日用もないのにぶらついてゐる。或る人たちは、郊外の明るい林を好んで、若い木の芽や材木の匂ひを嗅いでゐるのに、或る人は閑靜の古雅を愛して、物寂びた古池に魚の死體が浮いてるやうな、芭蕉庵の苔むした庭にたたずみ、いつもその侘しい日影を見つめて居る。
 げに人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人はその心境をもとめるために、現實にも夢の中にも、はてなき自然の地方を徘徊する。さうして港の波止場に訪ねくるとき、汽船のおーぼー[#「おーぼー」に傍点]といふ叫びを聞き、檣のにぎやかな林の向うに、青い空の光るのをみてゐると、しぜんと人間の心のかげに、憂愁のさびしい涙がながれてくる。

 私が大井町へ越して來たのは、冬の寒い眞中であつた。私は手に引つ越しの荷物をさげ、古ぼけた家具の類や、きたないバケツや、箒、炭取りの類をかかへ込んで、冬のぬかるみの街を歩き※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]つた。空は煤煙でくろずみ、街の兩側には、無限の煉瓦の工場が竝んでゐた。冬の日は鈍くかすんで、煙突から熊のやうな煙を吹き出してゐた。
 貧しいすがたをしたおかみさん[#「おかみさん」に傍点]が、子供を半てんおんぶで背負ひこみながら、天日のさす道を歩いてゐる。それが私のかみさんであり、その後からやくざな男が、バケツや荷をいつぱい抱へて、痩犬のやうについて行つた。

     大井町!

 かうして冬の寒い盛りに、私共の家族が引つ越しをした。裏町のきたない長屋に、貧乏と病氣でふるへてゐた。ごみためのやうな庭の隅に、まいにち腰卷やおしめ[#「おしめ」に傍点]を干してゐた。それに少しばかりの日があたり、小旗のやうにひらひらしてゐた。

     大井町!

 むげんにさびしい工場がならんでゐる、煤煙で黒ずんだ煉瓦の街を、大ぜいの勞働者がぞろぞろと群がつてゐる。夕方は皆が食ひ物のことを考へて、きたない料理屋のごてごてしてゐる、工場裏の町通りを歩いてゐる。家家の窓は煤でくもり、硝子が小さくはめられてゐる。それに日ざしが反射して、黒くかなしげに光つてゐる。

     大井町!

 まづしい人人の群で混雜する、あの三叉《みつまた》の狹い通りは、ふしぎに私の空想を呼び起す。みじめな郵便局の前には、大ぜいの女工が群がつてゐる。どこへ手紙を出すのだらう。さうして黄色い貯金帳から、むやみに小錢をひき出してる。

 空にはいつも煤煙がある。屋臺は屋臺の上に重なり、泥濘のひどい道を、幌馬車の列がつながつてゆく。

     大井町!

 鐵道工廠の住宅地域! 二階建ての長屋の窓から、工夫のおかみさんが怒鳴つてゐる。亭主は驛の構内に働らいてゐて、眞黒の石炭がらを積みあげてゐる。日ぐれになると、そのシヤベルが遠くで悲しく光つてみえる。
 長屋の硝子窓に蠅がとまつて、いつでもぶむぶむとうなつてゐる。どこかの長屋で餓鬼が泣いてゐる。嬶が破れるやうに怒鳴つてるので、亭主もかなしい思ひを感じてゐる。そのしやつぽ[#「しやつぽ」に傍点]を被つた勞働者は、やけに石炭を運びながら、生活の沒落を感じてゐる。どうせ嬶を叩き出して、宿場の女郎でも引きずり込みたいと思つてゐる。
 勞働者のかなしいシヤベルが、遠くの構内で光つてゐる。

 人生はふしぎなもので、無限のかなしい思ひやあこがれにみたされてゐる。人は自分の思ひを自然に映して、それぞれの景色の中に居住してゐる。

     大井町!

 煙突と工場と、さうして勞働者の群がつてゐる、あの賑やかでさびしい街に、私は私の住居を見つけた。私の泥長靴をひきずりながら、まいにちあの景色の中を歩いてゐた。何といふ好い町だらう。私は工場裏の路地を歩いて、とある長屋の二階窓から、鼠の死骸を投げつけられた。意地の惡い土方の嬶等が、いつせいに窓から顏を突き出し、ひひひひひと言つて笑つた。何といふうれしい出來事でせう。私はかういふ人生の風物からどんな哲學でも考へうるのだ。
 どうせ私のやうな放浪者には、東京中を探したつて、大井町より好い所はありはしない。冬の日の空に煤煙! さうして電車を降《お》りた人人が、みんな煉瓦の建物に吸ひこまれて行く。やたら凸凹《でこぼこ》した、狹くきたない混雜の町通り。路地は幌馬車でいつもいつぱい。それで私共の家族といへば、いつも貧乏にくらしてゐるのだ。



底本:「萩原朔太郎全集 第三卷」筑摩書房
   1977(昭和52)年5月30日初版第1刷発行
   1986(昭和61)年12月10日補訂版第1刷発行
入力:kompass
校正:小林繁雄
2003年9月5日作成
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