刹那にのみ詠嘆と祈祷はあり。
祈祷とは奇蹟を希願ふの言葉、而して詩は地上の奇蹟。
涙の甘くして混濁せるものを詠嘆と呼び、涙の苦くして透純せるものを感傷と呼ぶ。
詠嘆もまた幼年期の感傷と言ふを得べし、而して短歌の生命は詠嘆を出でず[#「短歌の生命は詠嘆を出でず」に傍点]、格調に捉はるれば也。
感傷が白熱するとき言葉は象徴の形式を帶ぶ、
あらゆる藝術の至上形式は象徴にあり[#「あらゆる藝術の至上形式は象徴にあり」に傍点]、
然りと雖も形式は結果にして目的にあらず[#「然りと雖も形式は結果にして目的にあらず」に傍点]、象徴のための象徴の如きは畢竟藝術上の遊戲にあらずして何ぞや。
象徴とは必ずしも不徹底|乃至《ないし》朦朧を意味するものにあらず、ロダンの藝術が如何に鮮明なる輪廓を有するかを想へ、ゴツホの藝術が如何に強烈なる色彩を有するかを想へ。然もたれか彼等に象徴なしと言ふものぞ。
刷毛を以てある種の畫面を洗ふは象徴の一手段なり、然れども全般の手段にあらず。象徴の意義をしかく縹渺模糊たる境地にのみ限らんとするは甚だしき偏見なりと言はざるべからず。煙と霧とを描くことをもて我の藝術なりと言ふはよし、然れども太陽の象徴を畫くものを目して異端となすは甚だ良ろしからず。斯くの如き形式のものは象徴なり、斯くの如き形式のものは象徴にあらずと言ふは愈※[#二の字点、1−2−22]不可なり、恐らくは象徴詩をして遊戲に墮落せしめん。詩の生命は形式にあらずしてリズムにあれば也[#「詩の生命は形式にあらずしてリズムにあれば也」に傍点]。
藝術上の遊戲とは必然性なき創作を言ふ[#「藝術上の遊戲とは必然性なき創作を言ふ」に白ゴマ傍点]、
生活を畫くもの必ずしも眞實にあらず花鳥風月を唄ふもの必ずしも遊べるにあらず。
賭博《とばく》は社會觀念より遊戲と目さるるも賭博者自身は遊戲を行へるにあらず、彼は一心不亂なり、時に生命《いのち》がけなり、此の場合に於ては賭博もまた靈性を有す。
怠惰なる農夫にとりては耕作も遊戲なり、
所謂、遊戲は眞の生活にして、所謂、生活は多くの場合に遊戲なり。
遊戲の眞實、生活の虚僞を想へ。
遊戲を愛せざる且つ知らざるものに眞の生活あることなし、遊戲とは生命意識の具象化されたる躍動なり[#「遊戲とは生命意識の具象化されたる躍動なり」に傍点]。
あらゆる遊戲を賤辱したる昔時の日本人の生活を想へ。眞に生くるものは貴族にして賤民にあらず、賤民に遊戲なる生活なし。
西洋人の思想を受賣りするより外に能なき衒學屋と流行屋を葬れ。
乞食をしても葉卷煙草を吸ふ者は室生犀星一人のみ。
眞に彼は賤民貴族の公爵なる哉。
詩は斷じて空想に非ず、實驗の世界なり。
奇蹟は感動にして形體に非ず、天國を説かんとするものは必ずその口を緘せらる。此の故に詩人の武器は言葉に非ずして傳熱なり。抽象にあらずして象徴なり。
いやしくも理智又は意志がその概念を展開したる祈祷は虚僞なり、かくの如き祈祷には感應あることなし。眞《まこと》に祈祷するものは一所懸命なり、祈祷者はその心靈に於て明らかに神と交歡す、彼自ら何を言ひ何を語りつつあるかを知らざる也。
奇蹟を啓示するものは神なり、神とは宇宙の大精力なり、而して之と交歡し得るもの人間の感傷以外にあること無し。
幼兒と聖人は神に聽かれんために祈祷し、衒學者及び説教者は傍人に聽かれんために祈祷す。
前者の祈祷は『詩』なり、その最も單純なるものと雖も尚『詩』といふを得べし。後者の祈祷に至りては『演説』にして詩に非ず、その最も幽邃深玄を極むる者と雖も尚詩形を借りたる論文に外ならず。而して祈祷に概念あることなし。
西洋人は眞に詩を理解する人種にあらず、彼等の感傷はあまりに混濁す、その最も透純なる者と雖も尚芭蕉に及ばず北原白秋に遠く及ばず。
詩とは『光』なり光體[#「光體」に傍点]にもあらず。
幼兒の眞實を嘲笑するものは必ず衒學の徒なり、
萬葉集の詠嘆は單純なれども千載の後その光を失ふことなし。幼年期の哲理は後に必ず嘲笑さるる秋あるも幼年期の眞實は永劫にその光を失ふことなし。
最も貧弱なる『光』も尚最も巨大なる『物體』にまされり、萬葉の戀歌一首はソクラテスの教理よりも劫久なる生命を有す。
『光』は感傷に發す、眞實の核を磨くことにより。
足は天地に垂降するの足、
手は地上に泳ぎて天上の泉をくむの手、
諸君、肉身に供養せよ、
諸君、おん手をして泥土にけがさしむる勿れ、詩人をして賤民の豚と交接せしむる勿れ、生活に淫する勿れ、手をして恆に高く頭上に輝やかしめ、肉身をして氷山の頂上に舞ひあがらしめよ、
ああ、香料もて夕餐の卓を薫郁せしめよ。
感傷奇蹟、絶倒せんとして視えざる氷をやぶり、疾行する狼を殺す、畜生の如きも金屬なれば閃電を怖るる事もつとも烈し、詩人よ汝の手を磨け。
感傷の權威を認めざるものは始めより詩を作らざるに如かず。[#地から5字上げ]――人魚詩社宣言――
聖餐餘録
[#ここから6字下げ]
食して後酒盃をとりて曰けるは此の酒盃は爾曹
の爲に流す我が血にして建つる所の新約なり、
[#ここで字下げ終わり]
[#地から1字上げ]―路加傳二二、二〇、
鐘鳴る。
我れの道路に菊を植ゑ、我れの道路に霜をおき、我れの道路に琥珀をしけ。
道路はめんめんたる一列供養のみち、夕日にけぶる愁ひの坂路、またその坂を昇り降らむとする聖徒勤行の路でもある。
鐘鳴る。
鐘鳴る。
エレナよ。今こそ哀しき夕餐の卓に就け。聖十字の銀にくちづけ、僧徒の列座を超え、雲雀料理の皿を超え、汝の香料をそのいますところより注げ。
ああ、いまし我の輝やく金屬の手に注げ、手は疾患し、醋蝕し、するどくいたみ針の如くになりて、觸るるところ、この酒盃をやぶり汝のくちびるをやぶるところの手だ。
ああ、いま聖者は疾患し、菊は疾患し、すべてを超えて我れの手は烈しく疾患する。
見よ、かがやく指を以て指さすの天、指を以て指さすの墳墓にもある。その甚痛のするどきこと菊のごときものはなく、菊よりして傷《いた》みを發すること疾患聖者の手のごときものはない。
愛する兄弟よ。
いまこそわが左に來れ。
汝が卓上に供ふるもの、愛餐酒盃の間、その魚の最も大なるものは正しく汝の所有である。
爾は女の足をひきかつぎ寢《ね》ることによりて、その素足に供養し流涕することによりて、爾の魚の大をなす所以である。
まことに夜陰に及び、汝が邪淫の臥床《ふしど》にさへ下馬札を建てるところの聖徒である。
凡そ我れの諸弟子諸信徒のうち、汝より聖なるものはなく、汝より邪慾のものはない。乞ふ、われはわれの肉を汝にあたへ、汝を給仕せんがために暫らく汝の右に坐することを許せ。
ああ、この兄弟よ、ぷうしきん[#「ぷうしきん」に傍点]の徒よ、爾は愛するユダである。我をあざむき賣《う》らむとし、我を接吻せんとする一念にさへ、汝は連坐頌榮の光輪を一人負ふところの聖徒である、『愛』である。
愛する兄弟よ。
而して汝は氷海に靈魚を獲んとするところの人物である。
肉親の骨肉を負ひて道路に蹌行し、肉を以て氷を割らんとするの孝子傳奇蹟人物である。
みよ、汝が匍行するところに汝が蒼白の血痕はあり。
師走に及び、汝は恆に磨ける裸體である。汝が念念祈祷するときに、菓子の如きものの味覺を失ひ、自働電話機の如きさへ甚だしく憔悴に及ぶことあり。
汝は電線を渡りてその愛人の陰部に沒入に及ばんとし、反撥され、而して狂奔する。況んや爾がその肉親のために得るところの鯉魚は、必ずともに靈界天人の感應せる、或はその神祕を啓示するところにならざるべからず。
愛する兄弟よ、まことに師走におよび、爾は裸體にして氷上に匍匐し、手に金無垢の魚を抱きて慟哭するところの列傳孝子體である。
諸弟子。
諸信經の中、感傷品を超えて解脱あることなし。萬有の上に我れをあがめ、我れの上に爾曹のさんちまんたる[#「さんちまんたる」に傍点]を頌榮せよ。
今宵、あふぎて見るものは天井の蜂巣蝋燭、伏して見るものは女人淫行の指、皿、魚肉、雲雀、酒盃、而して我が疾患蝕金の掌と、輝やく氷雪の飾卓晶峯とあり。
みよ、更に光るそが絶頂にも花鳥をつけ。
ああ、各※[#二の字点、1−2−22]の肩を超え、しめやかに薫郁するところの香料と沒藥と、音樂と夢みる香爐とあり。
諸使徒。
われと共にあるの日は恆に連坐して酒盃をあげ、交歡淫樂して一念さんちまんたりずむ[#「さんちまんたりずむ」に傍点]を頌榮せよ。
蓋し、明日炎天に於て斷食苦行するものはその新發意、道心のみ、もとより十字架にかかる所以のものは我れの涅槃に至ればなり。亞眠。
[#地から5字上げ]―人魚詩社信條―
光の説
光は人間にある
光は太陽にある
光は金屬にある
光は魚鳥にある
光は螢にある
光は幽靈の手にもある。
幽靈の手は鋼鐵製《はがね》である、鋭どくたたけばかんかと音がする。
幽靈の手は我の手だ、我の手を描くものは、幽靈の手を描くものだ。然も幽靈を見るものは尠ない。
幽靈とは幻影である、あやまちなき光の反照である。
幽靈は實在である、妄想ではない。
夢を見ないものは夢の眞實を信じない。
幽靈を見ないものは幽靈の眞實を理解しない。
光は『形』でなくて『命』である。概念でなくてリズムである。光は音波でもある、熱でもある、ええてる[#「ええてる」に傍点]でもある。所詮、光は理解でなくて感知である。
光とは詩である[#「光とは詩である」に傍点]。
詩の本體はセンチメンタリズムである。
光は色の急速に旋※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]した炎燃リズムである。色には七色ある。理智、信條、道理、意志、觀念、等その他。
光の中に色がある。
光から色を分析するためには、分光機が必要である。
然もさういふ試驗は理學者にのみ必要である。(貧弱な國家には完全な分光機を持つた學者すらも居ない。)我我は光を光として感知すれば好い、何故ならば、光は既に光そのものであつて色ではない。
色は悉く概念である。
盲目は光を感知しない、――或は感知しても自ら氣がつかない――。
盲目は形ある物象以外のものを否定する。
白秋氏の詩に哲學がないと言つた人がある。無いのではない、見えないのだ。
色が色として單に配列されたものは、哲學である、科學である、思想である、小説である。
色が融熱して※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]轉を始めたときに、色と色とが混濁して或る一色となる。けれども夫れは色であるが故に尚概念である。すなはち感傷の油を差して一層の加速度を與へた場合に始めて色は消滅する。すなはち『光』が生れる、すなはち『詩』が生れる。
熱は眞實[#「眞實」に傍点]である、光は感傷[#「感傷」に傍点]である。
色が色として見えるやうなものは光でない、物體である。斷じて詩ではない。
* * * *
螢の光[#「光」に白丸傍点]は戀である。
女の美[#「美」に白丸傍点]は淫慾である。
あらゆる生物のパツシヨンは光[#「光」に白丸傍点]である。けれどもあらゆる光[#「光」に白丸傍点]が必ずしもパツシヨンではない。
聖人の輪光は肉體をはなれて見える。
パツシヨンばかりが詩ではない。
センチメンタルばかりが詩である。
光輪も聖人の怒と哀傷とによつて輝く。
足が地上を離れんとして電光[#「電光」に白丸傍点]に撃たれる。自分の肢體が金粉のやうに飛散する。
月光[#「月光」に白丸傍点]の海に盲魚が居る。
眞實は燐だ、感傷は露だ。
光は天の一方にある、空の青明を照映するために我の額は磨かれる、一心不亂に磨きあげられる。
鵞鳥は純金の卵を生む。自分の安住する世界はいつも美しい、夢のやうに不可思議で、夢のやうに美しい。
手の幻影
白晝或は夜間に於て幻現するところの手は必ず一個である。左[#「左」に白丸傍点]である。
而してそは何ぴとにも語ることを禁ぜられるところのあるもの[#「ある
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