すべての訳詩は、それが翻訳者自身の創作であり、翻案である限りに於て価値を持つてる。換言すれば詩の翻訳者は、原作を自分の中に融化し、自分の芸術的肉体として、細胞化した場合にのみ、初めて訳者としての著作権を有するのである。即ち例へば、ポオの翻訳に於けるボードレエルの場合であつて、これが即ち「名訳」である。そしてすべて名訳は、それ自ら翻訳者の創作であり、正しく翻案に外ならないのだ。
森鴎外氏の「即興詩人」は、原作よりもずつと善いといふ定評がある。あの訳を読んだ人たちは、案外原作のつまらないのに失望して不平を言つた。「即興詩人は訳ぢやない。あれは鴎外氏の創作なんだ。僕等は鴎外氏にだまされたのだ」と。正にその通り、即興詩人は鴎外氏自身の作つた翻案なのだ。そしてまた、その故にこそ「名訳」なのだ。
すべての善き翻訳は「創作」である。それ故にボードレエルの訳を通じて、ポオの詩を読んでる人たちは、実にはボードレエルの詩を読んでるので、ポオを読んではないのである。
堀口大學君は、仏蘭西語の訳詩者として定評がある。ところで堀口君の訳した詩は、ヱルレーヌでも、シモンズでも、コクトオでも、すべてみな堀口君自身の詩であつて、どれを読んでも、一つの同じ堀口的スタイル、一つの同じ堀口的抒情詩の変化に過ぎない。つまり堀口の場合にあつては、すべての訳詩が翻訳であり、自分の創作になつてるからだ。そこで堀口君の訳詩を通して、ヱルレーヌを愛読し、ヱルレーヌに私淑してゐるといふ一青年が、かつて私に自作の詩を示して言つた。「ヱルレーヌの影響があると思ふのですが……」その詩を読み終つた後で私が答へた。「ヱルレーヌの影響なんか一つもない。みんな堀口君の詩の摸倣ばかりだ。」
かつて日本の詩壇に、象徴派の詩人ヱルハーレンの流行した時代があつた。当時或る若い新進の詩人が、ヱルハーレンの影響を受けてると言ふので評判された。私がその詩を読んで驚いたことには、それが川路柳虹君の詩そつくり[#「そつくり」に傍点]の模倣であつた。そして当時川路君は、ヱルハーレンの詩を盛んに訳してゐたのである。――これほど滑稽な事実はなかつた。
訳詩を読む人々への注意は、第一に先づその訳者が、詩人として、文学者として、原作者と同等以上、もしくは同等、もしくは最悪の場合に於てすら、雁行する程度の才能を持つてゐるか否かを見るべきである。訳者に、もしそれだけの資格がなく、原作者との比較に於て、問題にならないヘツポコ詩人であるとすれば、むしろ全然さうした翻訳を読まない方が利口である。なぜなら詩の翻訳は、翻訳者自身の創作であり、翻訳者の情想や、技巧や、スタイルやの、特殊な同化された血液を通してのみ、原詩の精神を透視することが出来るのだから。それ故にまた、訳された原詩の価値は[#「訳された原詩の価値は」に傍点]、常にその翻訳者の詩人的価値と一致してゐる[#「常にその翻訳者の詩人的価値と一致してゐる」に傍点]。翻訳者にして、もしヘツポコ詩人であるとすれば、原詩の価値もまた、低劣なヘツポコ詩に過ぎないのである。ボードレエルは、ポオを仏蘭西人に正価で売つた。しかしながら他の翻訳者等は、概ね原作者の価値を下落させ、捨値で売りつけてゐるのである。
翻訳の不可能は、もつと広く、根本的の問題としては、必ずしも詩ばかりでなく、文学一般に関係し、さらに尚ほ本質的には、外国文化の移植そのことに関係して来る。一例として Real といふ言葉は、日本語では「現実」と訳されてゐる。したがつてまた Realism は、日本語で「現実主義」と訳されてゐる。しかしながら Real といふ言葉は外国語の意味に於いては、単なる「現実」を指すのでなく、もつと深奥な哲学的の意味、即ち或る「真実のもの」「確実なもの」、架空の幻影や仮象でなくして、正に「実在するもの」といふやうな意味を持つてゐる。然るに日本の文壇では、これを単に、「現実」と訳したことから、日本の所謂レアリズムの文学が、単なる日常生活の事実を書き、無意味な現実を平面的に記述するに止まるところの、所謂「身辺小説」となつてしまつたのである。そしてこんなレアリズムの文学は、西洋に決して無く、一つも見ることが出来ないのである。Naturalism を、「自然主義」と訳したことも、同様にまた誤訳であつて、それが日本の文学を畸形にし、特殊な写生文的小説を流行させた。
真実の意味を言へば、外国語は決して訳することが出来ないのである。単に類似の言葉をもつて、仮りに原語に相当させ、ざつと間に合はせておくにすぎない。然るに日本人は、歴史的に思想を持たない国民であるから、本来哲学的の思想を根とする西洋文学の輸入に際して一もそれに適応する原語がなく、日本語字典のあらゆる言海を探した後で、止むを得ず「現実」や「自然」などといふ訳語を、無理にこじつけて適当させた。そして結局、レアリズムもナチュラリズムも、その他の如何なる西洋文学も、正当に翻訳し得ないで終つてしまつたのである。
外国文化の輸入に於て、翻訳が絶対に不可能のこと、実には「翻案」しか有り得ないこと、そして結局、すべての外国文化の輸入は、国民自身の主観的な「創作」に過ぎないことは、以上の一例によつても解るのである。支那文化を同化した日本人の過去の歴史は、特によくこの事実を実証してゐる。
日本の陸軍では、すべての外国語を、故意にむづかしい日本語(実は漢語)に訳してしまふ。例へばタンクを、軍用自働車と言つたり、装甲自働車と訳したりする。或る教官が新兵に教へて、「日本の陸軍は本質的に外国の軍隊とちがふのである」と言つた後で、無邪気な新兵が質問した。「教官殿。サーベルは西洋の刀でありませんか。」教官「サーベルではない。日本の軍隊では指揮刀と言ふのだ。解つたかツ。」新兵「ラツパは何でありますか。」教官「馬鹿ツ! ラツパは日本語だ。」
これは国枠主義のカリカチュールである。国枠主義者の観念は、すべての輸入した外国文化を、無理にこじつけて、不自然に創作しようと努力する。これに反して、進歩的インタナショナルの人々は、外国文化を出来るだけ忠実に、原作の通りに翻訳しようと意志するのである。結果に於て見れば、両方共に、所詮は翻案化するに過ぎないのだが、翻訳者としての良心では、勿論後者の意志する方が正しいのである。前者は、初めから誤訳することを目的として誤訳してゐる。
転向したマルキストは、翻訳の不可能を知つたのである。彼等は文学者より聡明である。なぜなら、日本の文学者等は、彼等の翻案化された似而非の自然主義文化や、似而非のレアリズム文学を以て、自から外国思潮のそれと同列させ、資本主義末期の近代文学を以て自任しつつ、笑止にも得意でゐるからである。
底本:「日本の名随筆 別巻45 翻訳」作品社
1994(平成6)年11月25日第1刷発行
底本の親本:「萩原朔太郎全集 第九巻」筑摩書房
1976(昭和51)年5月発行
入力:浦山 敦子
校正:noriko saito
2009年5月5日作成
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