ばくてりやの世界

ばくてりやの足、
ばくてりやの口、
ばくてりやの耳、
ばくてりやの鼻、

ばくてりやがおよいでゐる。

あるものは人物の胎内に、
あるものは貝るゐの内臓に、
あるものは玉葱の球心に、
あるものは風景の中心に。

ばくてりやがおよいでゐる。

ばくてりやの手は左右十文字に生え、
手のつまさきが根のやうにわかれ、
そこからするどい爪が生え、
毛細血管の類はべたいちめん[#「べたいちめん」に傍点]にひろがつてゐる。

ばくてりやがおよいでゐる。

ばくてりやが生活するところには、
病人の皮膚をすかすやうに、
べにいろの光線がうすくさしこんで、
その部分だけほんのりとしてみえ、
じつに、じつに、かなしみたへがたく見える。

ばくてりやがおよいでゐる。


およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、
二本の手はながくそろへてひきのばされる、
およぐひとの心臓《こころ》はくらげのやうにすきとほる、
およぐひとの瞳《め》はつりがねのひびきをききつつ、
およぐひとのたましひは水《みづ》のうへの月《つき》をみる。


ありあけ

ながい疾患のいたみから、
その顔はくもの巣だらけとなり、
腰からしたは影のやうに消えてしまひ、
腰からうへには藪が生え、
手が腐れ
身体《からだ》いちめんがじつにめちやくちやなり、
ああ、けふも月が出で、
有明の月が空に出で、
そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、
畸形の白犬が吠えてゐる。
しののめちかく、
さみしい道路の方で吠える犬だよ。




まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづき[#「みかづき」に傍点]がかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』




つめたきもの生れ、
その歯はみづにながれ、
その手はみづにながれ、
潮さし行方もしらにながるるものを、
浅瀬をふみてわが呼ばへば、
貝は遠音《とほね》にこたふ。


麦畑の一隅にて

まつ正直の心をもつて、
わたくしどもは話がしたい、
信仰からきたるものは、
すべて幽霊のかたちで視える、
かつてわたくしが視たところのものを、
はつきりと汝にもきかせたい、
およそこの類のものは、
さかんに装束せる、
光れる、
おほいなるかくしどころをもつた神の半身であつた。


陽春

ああ、春は遠くからけぶつて来る、
ぽつくりふくらんだ柳の芽のしたに、
やさしいくちびるをさしよせ、
をとめのくちづけを吸ひこみたさに、
春は遠くからごむ[#「ごむ」に傍点]輪のくるまにのつて来る。
ぼんやりした景色のなかで、
白いくるまやさんの足はいそげども、
ゆくゆく車輪がさかさにまわり、
しだいに梶棒が地面をはなれ出し、
おまけにお客さまの腰がへん[#「へん」に傍点]にふらふらとして、
これではとてもあぶなさうなと、
とんでもない時に春がまつしろの欠伸をする。


くさつた蛤

半身は砂のなかにうもれてゐて、
それで居てべろべろ舌を出して居る。
この軟体動物のあたまの上には、
砂利や潮《しほ》みづが、ざら、ざら、ざら、ざら流れてゐる、
ながれてゐる、
ああ夢のやうにしづかにもながれてゐる。

ながれてゆく砂と砂との隙間から、
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる、
この蛤は非常に憔悴《やつ》れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした内臓がくさりかかつて居るらしい、
それゆゑ哀しげな晩かたになると、
青ざめた海岸に坐つてゐて、
ちら、ちら、ちら、ちらとくさつた息をするのですよ。


春の実体

かずかぎりもしれぬ虫けらの卵にて、
春がみつちりとふくれてしまつた、
げにげに眺めみわたせば、
どこもかしこもこの類の卵にてぎつちりだ。
桜のはなをみてあれば、
桜のはなにもこの卵いちめんに透いてみえ、
やなぎの枝にも、もちろんなり、
たとへば蛾蝶のごときものさへ、
そのうすき羽は卵にてかたちづくられ、
それがあのやうに、ぴかぴかぴかぴか光るのだ。
ああ、瞳《め》にもみえざる、
このかすかな卵のかたちは楕円形にして、
それがいたるところに押しあひへしあひ、
空気中いつぱいにひろがり、
ふくらみきつたごむまり[#「ごむまり」に傍点]のやうに固くなつてゐるのだ、
よくよく指のさきでつついてみたまへ、
春といふものの実体がおよそこのへんにある。


贈物にそへて

兵隊どもの列の中には、
性分のわるいものが居たので、
たぶん標的の図星をはづした。
銃殺された男が、
夢のなかで息をふきかへしたときに、
空にはさみしいなみだがながれてゐた。
『これはさういふ種類の煙草です』


さびしい情慾[#「さびしい情慾」は太
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