なかつた為もあらうが、実にはこの形式の表現が、彼のユニイクな直覚的の詩想や哲学と適応して居り、それが唯一最善の方法であつたからである。アフォリズムとは、だれも知る如くエッセイの一層簡潔に、一層また含蓄深くエキスされた文学(小品エッセイ)である。したがつてそれは最も暗示に富んだ文学で、言葉と言葉、行と行との間に、多くの思ひ入れ深き省略を隠して居る。即ち言へば、アフォリズムはそれ自ら「詩」の形式の一種なのである。(したがつて西洋の詩人たちは、独りニイチェに限らず、グウルモンでも、ジャン・コクトオでも、ボードレエルでも、ヴァレリイでも、すべて皆アフォリズムを書いてる。それは正しく「詩人の文学」なのである。)
アフォリズムは詩である。故にこれを理解し得るものも、また詩人の直覚と神経とを持たねばならない。そこでニイチェを理解するためには、読者に二つの両立した資格が要求される。「詩人」であつて、同時に「哲学者」であることである。純粋の理論家には、もちろんニイチェは解らない。だが日本で普通に言はれてるやうな範疇の詩人(彼等は全く没思想である)にも、また勿論ニイチェは理解されない。だがその二つの資格
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