ルストイやタゴールが流行児であつた如く、ニイチェもまたかつて流行児であつた。そしてトルストイやタゴールが廃つた如く、ニイチェもまた忽ちに廃つてしまつた。それもその筈である。人々はただニイチェの名前だけを、ジャーナリズムのニュースで知つてるだけで、実際には一頁のニイチェも読んでは居なかつたのだ。彼等の中で、比較的忠実に読んだ人さへが、単なる英雄主義者として、反キリストや反道徳の痛快なヒーローとして、単純な感激性で崇拝して居たこと、あたかも大正期の文壇でトルストイやドストイェフスキイやを、単なる救世軍の大将(人道主義者)として、白樺派の人々が崇拝して居たに同じである。甚だしきは、かつてニイチェズムの名が、本能主義や享楽主義のシノニムとして流行した。それからしてジャーナリスト等は、三角関係の恋愛や情死者等を揶揄してニイチェストと呼んだ。
 何故にニイチェは、かくも甚だしく日本で理解されないだらうか。前にも既に書いた通り、その理由はニイチェが難解だからである。たしかメレヂコフスキイだかが言つたやうに、ニイチェの読者は、インテリの中での最上層に生活して居る読者である。ところで、日本のインテリは、欧羅巴のそれに比して一般に程度が低く、知識人としての下層に居る。単にそればかりでなく、日本の詩人や文学者は、一般に言つて「哲学する精神」を所有して居ない。そしてこれが、ニイチェを日本の理解からさまたげてる最も根本の原因である。近頃日本の文壇では「日常性の哲学」といふことが言はれて居るが、元来文学者の生活には、常に「哲学する日常性」が必要なのである。即ちゲーテも言つてるやうに、詩人に必要なものは哲学でなくして、哲学する精神である。ベルグソンやデルタイは言ふ。真の意味の哲学者とは、哲学を学問する人のことでなくして、哲学する精神を気質し、且つメタフィヂックを直覚する人のことである。即ち真の哲学者とは、所謂「哲学者」の謂でなくして「詩人」の謂である。詩人こそ真の哲学者であると。文学者がもし真の文学者であるならば、このベルグソン等の意味に於ける哲学者でなければならない。ところが日本の文壇には、その哲学者が甚だすくないのである。日本人は昔から「言あげせぬ国民」であり、思考したり哲学したりすることを好まない。日本の詩人は、芭蕉、西行等の古から、大正昭和の現代に至るまで、皆一つの極つた範疇を持つて居る
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