ウォーソン夫人の黒猫
萩原朔太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)良人《おっと》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)面白|可笑《おか》しく

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)てきぱき[#「てきぱき」に傍点]と働らいていた。
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 ウォーソン夫人は頭脳もよく、相当に教育もある婦人であった。それで博士の良人《おっと》が死んで以来、或《あ》る学術研究会の調査部に入り、図書の整理係として働らいていた。彼女は毎朝九時に出勤し、午後の四時に帰宅していた。多くの知識婦人に見る範疇《はんちゅう》として、彼女の容姿は瘠形《やせがた》で背が高く、少し黄色味のある皮膚をもった神経質の女であった。しかし別に健康には異状がなく、いつも明徹した理性で事務を整理し、晴れやかの精神でてきぱき[#「てきぱき」に傍点]と働らいていた。要するに彼女は、こうした職業における典型的の婦人であった。
 或る朝彼女は、いつも通りの時間に出勤して、いつも通りの事務を取っていた。一通り仕事がすんだ後《あと》で、彼女はすっかり[#「すっかり」に傍点]疲労を感じていた。事務室の時計を見ると、丁度四時五分を指《さ》しているので、彼女は卓上の書類を片づけ、そろそろ帰宅する準備を始めた。彼女は独身になってから、或る裏町の寂しい通りで、一間しかない部屋を借りていたので、余裕もなく装飾もない、ほんとに味気ない生活だった。いつでも彼女は、午後の帰宅の時間になると、その空漠《くうばく》とした部屋を考え、毎日毎日同じ位地に、変化もなく彼女の帰りを待ってる寝台や、窓の側に極《きま》りきってる古い書卓や、その上に載ってる退屈なインキ壺《つぼ》などを考え、言いようもなく味気なくなり、人生を憂鬱《ゆううつ》なものに感ずるのだった。
 この日もまた、そのいつも通りの帰宅の時間に、いつも通りの空虚な感情が襲って来た。だがそうした気分の底に、どこか或る一つの点で、いつもとちがった不思議の予感が、悪寒《おかん》のようにぞくぞくと感じられた。彼女の心に浮んだものは、いつものような退屈な部屋ではなく、それよりももっと[#「もっと」に傍点]悪い、厭《い》やな陰鬱なものが隠れている、不快な気味のわるい部屋であった。その圧迫する厭やな気分は、どんなにしても自分の家に、彼女を帰らせまいとするほどだった。けれども結局、彼女は重たい外套《がいとう》を着て、いつも通りの家路《いえじ》をたどって行った。
 部屋の戸口に立った時、彼女は何物かが室の中に、明らかにいることを直感した。いつ、どこから、だれがこの部屋に這入《はい》って来て、自分の留守にいるのだろう。そうした想像の謎の中で、得体《えたい》のわからぬ一つの予感が、疑いを入れない確実さで、益※[#二の字点、面区点番号1−2−22、33−3]《ますます》はっきりと感じられた。「確かに。何物かがいる。いるに相違ない。」彼女はためらった。そして勇気を起し、一息に扉《ドア》を開《あ》けひらいた。
 部屋の中には、しかし一人の人間の姿もなかった。室内はひっそり[#「ひっそり」に傍点]としており、いつものように片づけられていた。どこにも全く、少しの変ったこともなかった。けれどもただ一つ、部屋の真中の床の上へ、見知らぬ黒猫が坐り込んでいた。その黒猫は大きな瞳《ひとみ》をして、じっと夫人をみつめていた。置物のように動かないで、永遠に静かな姿勢をしてうずくまっていた。
 夫人は猫を飼っておかなかった。もちろんその黒猫は、彼女のいない留守の間に、他所《よそ》から紛れ込んだものに相違なかった。がどこから這入って来たのだろう。留守の間の用心として、いつも扉《ドア》は厳重に閉《とざ》してあった。もちろん鍵《かぎ》をかけ、そしてすべての窓は錠を下《おろ》して密閉されていた。夫人は少し疑い深く、部屋のあらゆる隅々を調べてみた。しかしどこにも決して、猫の這入るべき隙間《すきま》はなかった。その部屋には煙突もなかったし、空気ぬきの穴もなかった。どんなによく調べてみても、猫の這入り得る箇所はないのである。
 夫人はそこで考えた。留守の間に何人かが――おそらくは窃盗《せっとう》の目的で――一度この部屋をうかがい、窓の一部を開けたのである。猫はその時偶然にどこからか這入って来た。そしてその人物が、暫《しば》らくこの部屋で何事かをした後に、再度またもとのように、窓を閉めて帰って行った。猫はその時から、此所に閉じこめられているのであると。実際また、それより外に推理の仕方はなかったのだ。
 夫人は決して、病的な精神の所有者ではなかった。反対に理智の発達した、推理癖のある女性であった。けれども婦人の身として、さすがにこの不思議な出来事は不気味であった。自分のいない留守の間に、或る知らない人物が忍び込んで、居間《いま》で何事かをしているということは、考えるだけでも神経を暗くした。
 夫人は夢に魘《うな》された時のように、厭やな重圧した気分を感じた。だが彼女の推理癖は、どうにもしてこの奇怪な事件から、真の原因を探り出そうと考えた。もし或る人物が、留守にどこかの窓を開けて、そこから闖入《ちんにゅう》して来るとすれば、窓の或るどこかに、コジあけた痕跡《こんせき》が残っているか、でないとしても、多少の指紋が残っているべきはずである。夫人は注意ぶかく調べて見た。だが窓のどこにも、少しの異状がなく、指紋らしきものさえなかった。この点の様子からは、絶対に人の這入った痕跡がないのである。
 翌朝起きた時に、彼女は一つの妙案を思いついた。それは部屋のあらゆる隅々へ、人の気づかない色チョークの粉を、一面に薄く敷いておくことである。もし今日も昨日のように、留守に何事かが、起ったらば、すっかり証拠の足跡がついてしまう。例の厭やな猫でさえも、それが這入って来た箇所からの、正直な足跡を免かれない。一切の原因が明白になってしまうだろう。
 この計案を完全に実行し、充分の成功を確めたところで、彼女はいつもの外套を着、いくらか落付いた気分で出かけて行った。が、だが事務室の柱時計が四時に近くなった時には、またいつもの不安な予感が、いつものように襲って来た。どうしても部屋の中に、だれかが坐っているような感じがする。その感じはハッキリしており、眼の前を飛ぶ小虫のように、執拗《しつよう》に追いのけられないものであった。そしてなお不吉なことには、いつも必ず適中するのであった。果してその留守の部屋の中には、今日もまた黒猫が坐り込んでた。気味の悪い静かな瞳で、じっと夫人の方をみつめながら。しかもその部屋の中には、夫人のすべての期待に反して、どこに一つ小さな足跡すら付いてなかった。今日の朝に敷かれたチョークの粉は、閉じ込められた室《へや》の重たい空気で、黴《かび》のように積っていた。その粉の一粒すらが、少しも位地を換えてなかった。明白に部屋の中へは、何物も這入って来なかったのである。
 すべてのあり得べき奇異の事情と、その臆測《おくそく》される推理の後で、夫人はすっかり混惑《こんわく》してしまった。実証されてる事実として、此所にはどんな人間も這入って来ず、猫でさえも、決して外部から入り込んだものではないのだ。しかも奇怪のことには、その足跡を残さぬ猫が、ちゃんと目前の床に坐り込んでいるではないか。今、此所に猫がいるというほど、それほど確かな事実はない。しかも魔法の奇蹟でない限り、この固く閉めこんだ室の中に、一つの足跡も残さずして、猫がいるという道理はないのである。
 夫人は理性を投げ出してしまった。それでもなお、もっと念入りの注意の下に、翌日もまた同じ試験を試みてみた。だが結果は、依然として同じであり、しかもその翌日も、翌日も同じ気味の悪い黒猫が、同じ床の上に坐り込んでいた。そしてこの奇怪の動物は、彼女が窓を開けると同時に、いつもそこから影のように飛び去って行った。
 とうとう夫人は、最後に或る計画を思いついた。猫がどこから這入ってくるのかを見定めるため、扉《ドア》の蔭にかくれていて、終日鍵穴から覗《のぞ》いてみようと考えた。翌日、彼女は出勤を休んだ。そしていつもの通り、窓にすっかり錠をおろし、戸口に一脚の椅子を持ち出した。それから扉を閉め、椅子を鍵穴のところに持って行って、一秒の間も油断なく、室内を熱心に覗いていた。朝から午後まで長い時間が経過した。それは彼女の緊張した注意力には、ひどく苦しい時間であり、耐えられないほどの長い時間であった。ともすれば彼女は、注意力の弛緩《しかん》からして、他のことを考えてぼんやりしていた。彼女は時々、胸の隠衣《かくし》から時計を出して針の動くのを眺めていた。すべて長い時間の間、室内には何事も起らなかった。夫人はまた時計を出した。その時丁度、針が四時五分前を指していたので、うたた寝から醒めた人のように、彼女は急に緊張した。そして再度鍵穴から覗いた時、そこにはもはや、ちゃんといつもの黒猫が坐っていた。しかもいつもと同じ位地に、同じ身動きもしない静かな姿勢で。
 全くこの事実は、超自然の不思議というより外、解決のできないことになってしまった。ただ一つだけ解ってるのは、午後の四時になる少し前に、どこからか、どうしてか解らないが、とにかく一疋《いっぴき》の大きな黒猫が、室内に現われてくるという事実であった。夫人はもはや、自分の認識を信用しなくなってしまった。すべてやるだけの手段を尽し、疑い得るだけの実験を尽してしまった。夫人はもしかすると、自分の神経に異状があり、狂気しているのではないかと思った。彼女は鏡の前に立って、瞳孔《どうこう》が開いているかどうかを見ようとした。
 毎日毎日、その忌《いま》わしい奇怪の事実が、執拗にウォーソン夫人を苦しめた。彼女はすっかりヒステリカルになってしまい、白昼事務室の卓の上にも、猫の幻影を見るようになってしまった。時としてはまた、往来を歩くすべての人が、猫の変貌《へんぼう》した人間のように見えたりした。そういう時に彼女は、その紳士めかした化猫の尻尾《しっぽ》をつかんで、街路に叩《たた》きつけてやりたいという、狂気めいた憎悪《ぞうお》の激情に駆り立てられ、どうしても押えることができなかった。
 それでも遂《つい》に、理性がまた彼女に回復して来た。この不思議な事件について、第三者の実証を確めるために、友人を招待しようと考えたのだ。それで三人の友人が、いつも猫の現われる時間の少し前に、彼女の部屋に招待された。二人は同じ職業の婦人であり、一人は死んだ良人の親友で、彼女とも家族的に親しくしていたところの、相当年輩に達した老哲学者であった。
 訪客と主人を加えて、丁度四脚の肱掛椅子《ひじかけいす》が、部屋の中央に円《まる》く並べられた。それは客のだれの眼にも、猫がよく見える位置を選んで、彼女がわざとそうしたのであった。始め暫らくの間、皆は静かに黙っていた。しかし少時の後には、会話が非常にはずんで来て、皆が快活にしゃべり始めた。いろいろな取りとめもない雑談から、話題は心霊学のことに移った。老博士の哲学者は、この方面に深い興味を持っていたので、最近或る心霊学会で報告された、馬鹿に陽気な幽霊の話をして婦人たちを面白|可笑《おか》しく笑わせた。しかしウォーソン夫人だけは、真面目《まじめ》になって質問した。
「動物にも幽霊があるでしょうか? 例えば猫の幽霊など。」
 皆は一緒に笑い出した。猫の幽霊という言葉がひどく滑稽《こっけい》に思われたのである。だが丁度、その時皆の坐っている椅子の前へ、いつもの黒猫が現われて来た。それはだれも知らないどこかの窓から、そっと入り込んで来たのであった。そして平気な様子をして、いつもの場所にすまし[#「すまし」に傍点]込んで坐っていた。
「この事実は何ですか?」
 夫人は神経を緊張させて、床の上の猫を指さした。その一つの動物に、皆
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