るい部屋であった。その圧迫する厭やな気分は、どんなにしても自分の家に、彼女を帰らせまいとするほどだった。けれども結局、彼女は重たい外套《がいとう》を着て、いつも通りの家路《いえじ》をたどって行った。
部屋の戸口に立った時、彼女は何物かが室の中に、明らかにいることを直感した。いつ、どこから、だれがこの部屋に這入《はい》って来て、自分の留守にいるのだろう。そうした想像の謎の中で、得体《えたい》のわからぬ一つの予感が、疑いを入れない確実さで、益※[#二の字点、面区点番号1−2−22、33−3]《ますます》はっきりと感じられた。「確かに。何物かがいる。いるに相違ない。」彼女はためらった。そして勇気を起し、一息に扉《ドア》を開《あ》けひらいた。
部屋の中には、しかし一人の人間の姿もなかった。室内はひっそり[#「ひっそり」に傍点]としており、いつものように片づけられていた。どこにも全く、少しの変ったこともなかった。けれどもただ一つ、部屋の真中の床の上へ、見知らぬ黒猫が坐り込んでいた。その黒猫は大きな瞳《ひとみ》をして、じっと夫人をみつめていた。置物のように動かないで、永遠に静かな姿勢をしてうずくまっていた。
夫人は猫を飼っておかなかった。もちろんその黒猫は、彼女のいない留守の間に、他所《よそ》から紛れ込んだものに相違なかった。がどこから這入って来たのだろう。留守の間の用心として、いつも扉《ドア》は厳重に閉《とざ》してあった。もちろん鍵《かぎ》をかけ、そしてすべての窓は錠を下《おろ》して密閉されていた。夫人は少し疑い深く、部屋のあらゆる隅々を調べてみた。しかしどこにも決して、猫の這入るべき隙間《すきま》はなかった。その部屋には煙突もなかったし、空気ぬきの穴もなかった。どんなによく調べてみても、猫の這入り得る箇所はないのである。
夫人はそこで考えた。留守の間に何人かが――おそらくは窃盗《せっとう》の目的で――一度この部屋をうかがい、窓の一部を開けたのである。猫はその時偶然にどこからか這入って来た。そしてその人物が、暫《しば》らくこの部屋で何事かをした後に、再度またもとのように、窓を閉めて帰って行った。猫はその時から、此所に閉じこめられているのであると。実際また、それより外に推理の仕方はなかったのだ。
夫人は決して、病的な精神の所有者ではなかった。反対に理智の発達した、推理
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