風に書く。HA の H をサイレントとし、A の母音を主語に連結してしまふために、自然にかうした言語の簡潔化が行はれるのである。

 現代日本語の整理を意圖する上に、何より必要にして必須なことは、國語のデタラメ發音を一掃して、日本語をその正しく純粹な音韻に統一することである。支那文字の輸入以來、我々は漢語のデタラメな無韻的和讀によつて、著るしく「耳の健康」を障害し、言語上の音痴民族となつてしまつた。正に今日に於ける僕等の醫療は、その「失はれた耳の健康」を新たに囘復することでなければならぬ。
 言語をその發音通りに書く[#「言語をその發音通りに書く」に傍点]、といふローマ字論者の主張は、もちろん僕等の異議なく大贊成をするところである。だが實際に「は」と發音されてる日本語を、故意に「わ」と書くやうな彼等の方法は、國語をその正しき發音通りに書くのでなくして、却つてこれを音痴的に邪曲惡化するものである。前に言つたその座談會の席上で、或る人がまた次のやうなことを提言した。曰く、停車場の驛札等に於て見る國府津の「かふづ」は、よろしく「こうづ」または「こーづ」とすべきである。でなければ外國人に讀了が困難だらうと。この原理を敷衍すれば、菓子は「くわし」と書かずして「かし」と書き、關東は「くわんとう」でなくして「かんとう」、蝶は「てふ」でなくして、「ちよー」と書くべき筈である。そしてローマ字論者や假名文字論者は、實際この通りに書いてるのである。しかし「國府津」の正しい發音は、驛札通り KAHUZU であつて KOZU でない。「關東」も正しい發音は KWANTO であつて KANTO ではない。ローマ字論者の主張が、言語をその發音通りに正しく書くといふのであつたら、彼等の書法は、正にその主義と自家矛盾をしてゐるのである。
 かうした僕等の質疑に對して、おそらくローマ字論者の答へる所は、國語の時代化した一般的通用性に從ふといふ、便利主義の實用效果を稱へるだらう。ところで僕のいちばん攻撃したいのは、この種の「誤つた便利主義」「淺薄な實利主義」なのである。なぜなら前に言ふ通り、日本現代語の混亂と猥雜とは、發音の韻を等閑にして、文字をデタラメに讀むことを教へたことに、一切の教育的因果を負ふからである。何よりも我々は、國語問題の急務として、今日「耳の健康」を囘復せねばならないのである。現代の通用化した日本語が、時代の過渡期混亂によつて、悉く皆音痴的に病疾されたものだとすれば――正にまたその通りであるが――時代の新しい更生教育は、何より先づその醫療に努めねばならないのである。單にその通用的便宜のために、疾患を疾患として放任し、惡に則《のつと》つて惡を準用する如きは、一國文化の將來を憂ふる者の、斷じて贊與しないところであらう。



底本:「萩原朔太郎全集 第十一卷」筑摩書房
   1977(昭和52)年8月25日初版第1刷発行
   1987(昭和62)年8月10日補訂版1刷発行
入力:鈴木厚司
校正:土屋隆
2010年2月16日作成
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