のやうに、夫々の區別した發音により、正しい平仄やアクセントをもつて發音されるやうになる。そしてこの時、初めて日本語に眞の「韻」といふものが出來、支那西洋の國語と同じく、我々の言葉にもまた眞の「韻律」が發生する。すくなくともこれによつて、日本語はずつと「音樂性」を豐富にし、純正詩歌の表現に適するやうになるであらう。詩人としての僕の立場が、ローマ字論者の主張に對して、常に多分の好意を持つのはこの爲である。
だがそれにもかかはらず、彼等のローマ字論者や假名文字論者に對して、尚且つ僕が滿點の贊意を表せず、時に大いに反感の敵意をさへ表するのは、彼等の「誤つた實利主義」が、往々にして僕等の美的藝術意識と衝突し、且つ却つて國語の純粹性を破壞するところの、反日本主義的のものに思はれるからである。一例をあげて見よう。
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花は咲き、鳥は鳴く。
僕は嫌ひだ。僕は好きだ。
[#ここで字下げ終わり]
ローマ字論者や假名文字論者の大部分は、かうしたフレーズに於ける「は」を、HA と書かないで WA もしくは「わ」と書くのが常である。(ローマ字論者以外の人々の中にも、近頃かうした書き方をする人が多くなつた。例へば高倉テル氏や矢田※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]雲氏など。)何故に彼等は、この場合に「は」を「わ」と書くのであらうか。かつて或る座談會で、僕はこの疑問を土岐善麿氏に質問したら、言語をその「發音通りに書く」といふ、ローマ字運動の原則に基づくのだと説明された。しかし「花は咲く」とか「僕は嫌ひだ」とかいふ場合の「は」が、果して實際に「わ」と發音されて居るのだらうか。この場合の正しい發音はいかに考へても HA の外になく、斷じて WA ではない筈である。故にこれを日常語で會話する時、その HA の H がサイレントとなつて省略され、A だけが後に殘つて、普通の聽覺上には「僕ア嫌ひだ」「俺ア厭だ」といふ風に聽えるのである。もしこれが WA であつたら、いかに音便に轉化しても、W の省略される筈がなく、「僕ア」「俺ア」といふ發音の生ずるわけがないのである。かの所謂文章語と稱するものは、日常口語の音便的に轉化したものを、さらに藝術的に薫練した言語であると言はれてゐるが、その文章語では、上例の「花は咲き鳥は鳴く」を、「花咲き鳥鳴く」といふ
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