。併し翻訳といふものゝ目的とする処は、一体何処であるのであらう。さういふやかましい事は、私には解らないが、兎《と》に角《かく》自国以外の者が、どういふ事を考へて居るか、外国ではどういふものゝ見方をして居るか、どういふ風にものを感ずるか等の事を、作物によつて知り、それによつて自分の考を豊富にし、自分の考へ方、もの事の見方、感じ方を整へるのである。結局それは自分のためにするものである事は言ふまでもない、果してさうであるとすれば、その翻訳の仕方も自から定まつて来る筈《はず》である。それはこゝに私がぐづぐづ説く必要もあるまい。然るに若《も》し其処《そこ》に誤訳といふものがあれば若《もし》くは拙訳といふものがあれば、それは全くその目的を達し得ないのみならず、それが有害なものになる。さういふものは、むしろ無い方が良い。何となれば丁度須田町の銅像が醜を曝《さら》すやうに電車、電灯が、人を困らすやうに、間違つた考へ方や間違つた見方感じ方を伝へては、世を毒する事になるからである。よしそれほどでなくても悪い翻訳は、その原作に対する人の考をあやまらすものである。私一個としてもさういふ経験がある。その一例をあげて言へば、私は子供の時バンヤンの翻訳を読まされたが、恐らくその翻訳が、まだ文学的思想の幼稚の時に出来たものであつたからであらう、甚だ面白くないものであつたゝめ、今日なほあの有名な作が嫌ひである。一方には世を害《そこな》ひ、一方には原作を害ふ、この場合シエイクスピアの言を逆に、災害は二重になる。甚だ恐るべきである。読者は咎《とが》めて言ふであらう、貴様は前に翻訳といふものは容易なものだと言つたではないかと、如何《いか》にも左様《さやう》言つたが、それは売品としての翻訳で、文芸としての翻訳ではない。もつとも私は翻訳不可能論者であるから、その点から言つても翻訳の事をやかましく言ふ資格はないのであるが、併し同時に翻訳は出来ないが、解説は出来るのである、即ちパラフレイズは可能であるから、それによれば原作の考へ方見方感じ方の紹介は出来る筈である。
 なほも一つ言ひたい事がある、それは翻訳なるものは、あまり宛《あて》にならないといふ事である。能《あた》ふべくは翻訳などは見ない事にして貰ひたいのである。これも翻訳不可能論に関係があるが、贔屓目《ひいきめ》に見ても翻訳は版画である。原作の細い筆づかひ、
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