かへつて見ると元氣な一女學生は、いつ船を出たか、もう新らたにボオトに乘り移つて舟を操縱して居る。私は驚いてしまつた。併し此處にも生の力を見てうれしかつた。内輪に遠慮勝ちなのは日本の女の美には相違ない、否、日本人の美には相違ない、併しその内輪な遠慮勝ちと、力の發動とは決して矛盾はしない。萬一矛盾するものならば、生の力の前には美も消失すべきである。またしても説法の癖が始まつた、「よしなき老の言ひごと、ただゆるしおはしませ」か。
歸りの自動車は快よかつた。山中湖畔での休息は特によかつた。それから例の籠坂峠を一氣に下つた。七八臺の自動車がかなりの速力で前後して、紆餘曲折した道を下つて飛ばして行くのは、何か活動寫眞にでもありさうな圖で、これは亦一興であつた。汽車は非常に込み合つて居て、坐る席などは絶無であつた。私は學生から讓られて、婆さんが不相應に足をのばして居るその傍に、僅かに腰を下し得た。すると對坐して一人の青年が居た、中學生で、如何にも眞面目な靜かな樣子である。何中學の生徒であるかはその説明をまつまでもなく、帽子がそれを語つて居た。青年は一卷の書物をのぞいて居る、見るとそれは藤村君の「破戒」であつた。此も修學旅行の歸りと見えたが、他の多數の學生は、車中で殆んど言語にたへた狼藉を演じて居るのに、その仲間であるこの一人の學生は、ひとり靜かにこんな書物を讀んで居るのが頼母しかつた。私は、貴方はそんな本が好きなんですかと尋ねて見た。すると學生は答へて、私はこの著者が好きですと云ひ、なほその「破戒」を私の方に差し出して、讀んで御覽になりませんかと云つた。私は、有難う、併し私はもう大分以前に讀みましたと云つて、好意を謝し且つことわつた。私は今一度若がへつて、こんな純な心をもつた青年になりたくなつた。そしてこの旅が徹頭徹尾、若い人達に引率されたのである、と云つたやうな心持になつて歸つて來た。
底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日初版発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全4ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
戸川 秋骨 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング