頻《しき》りに市中を巡邏《じゆんら》する。尚ほ手先を使つて、彼等盜賊の迹《あと》を附けさせると、それが今の芝《しば》の薩摩《さつま》ツ原《ぱら》の薩州屋敷に入《はい》るといふのでこの賊黨はとう/\薩藩《さつぱん》中《ちう》の溢《あふ》れ者《もの》だといふことが分つた。
ところで、一方の京都に於ては、慶喜公は既に大政《たいせい》を返上された。けれども以後の政治には、御自分等《ごじぶんら》も與《あづ》かつて、天下の公議で事を裁決しやうといふ御腹《おんはら》であつたのに、其年の十二月九日の夜《よ》。かの有名な小御所の會議で王政一新の議を決められた。處が慶喜公を初め、會津も桑名《くはな》も其會議に省かれた。のみならず、其の前後、徳川征討の密勅が薩長二藩に下つた。といふ噂が立つた。それが其頃大阪に居た慶喜公の耳に聞えた。そこで公は心|大《おほい》に平《たひらか》ならず、更に薩長彈劾の奏を上《たてま》つる、さアそんな事を聞くと江戸でもじツとしては居られない。そんな此んなで、やつつけるといふことで、とう/\薩州邸の燒打となつたのである。併し其時の騷ぎは大きくは無かつた。
右の燒打を初《はじめ》として、翌年正月の鳥羽《とば》、伏見《ふしみ》の戰ひ、其他すべては「文藝倶樂部《ぶんげいくらぶ》」の臨時増刊、第九年第二號「諸國年中行事」といふ中《うち》に、「三十五|年前《ねんぜん》」と題して私は委しく話した事がある。又た先頃の毎日電報《まゐにちでんぽう》に「夜長のすさび」として月曜毎に掲載した事があるから、今更改めて言ふにも及ぶまい。
兎に角、そんな風であるから、私《わたくし》の青年時代は中々文筆に親しむどころの騷ぎではない。すなはち十七年の秋《とき》から明治元年の二十一歳まで、東奔西走、居處なしといふ有樣だつた。ソレから其年靜岡に行くまでには馬鹿な危險の目にも自《おのづ》から出遇ツたし、今考へて見るとお話しをするにも困る程の始末だが、たゞ其頃は些《すこ》しも山氣《やまぎ》なし、眞面目に其の事《つか》ふる所に孤忠を盡すつもりであつた。
斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州《すんしう》の田中《たなか》に移つた。其の翌年、私《わし》は沼津《ぬまづ》の兵學校の生徒となつて調練などを頻りに遣らされた。けれども間もなく出て、靜岡の醫學校に入《はい》つたが、其處《そこ》から藩命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私《わし》の放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて、人見寧《ひとみやすし》、梅澤敏《うめさわとし》などゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下《あさました》の集學所といふに入《はい》つた。其の集學所に居る人間は函館《はこだて》の五稜廓《ごりやうかく》の討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日|軍《いくさ》ごツこ[#「ごツこ」に傍点]のやうな眞似ばかりして居たが、其《その》うち世は漸次《しだい》に文化に向つて、さういふ物騷《ぶつさう》な學校の立ち行かう筈もないので、其中《そのうち》に潰れて了つた。それから私《わし》は田舍の學校の教師になつた。
初めて横濱毎日新聞《よこはまゝいにちしんぶん》に入《はい》つたのは、明治七年である。それが今日《こんにち》のそも/\で、それから十一年に東京日々新聞《とうきやうにち/\しんぶん》に來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だから、美學や哲學の規則立つての修養もなく、唯《ただ》昔から馬琴《ばきん》其他の、作物は多く讀んだが、詰りが明窓淨几の人で無くつて兵馬倥偬《へいばこうそう》に成長《ひとゝな》つた方のだから自分でも文士などゝ任じては居らぬし、世間も大かた然《さ》うだらう。それだから今日《こんにち》書く小説もやはり其通り、迚《とて》も戀愛や煩悶の青年諸氏に歡《よろこ》ばれるやうな品物を、書けもしなければ、又た書かうといふ野心も起らない。僕はやはり僕だけの僕で居る。
[#下げて、地より1字あきで](明治四十二年八月「文章世界」第四卷第十一號)
底本:「明治文學全集89巻 明治歴史文學集」筑摩書房
1976(昭和51)年1月30日初版発行
初出:「文章世界」博文館
1909(明治42)年8月第4巻第11号
入力:和井府清十郎
校正:松永正敏
2002年3月11日公開
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