國の經濟が非常に助かるといふ説も出で、これには贊成もあり、反對もあつたが、蕎麥は知らぬが、玉蜀黍の方は今は亞米利加《あめりか》の常食だ。併し其の時分、玉蜀黍説には僕も驚かされた。先づ旅中、およそ六七十日のうち、三日にあげず寄合つて異な言《こと》を言ひ出して、互ひに意見を述べ合つて居たけれども、幕府に、肝腎の開墾資金がなかつたので、とう/\此論も沙汰止みの行はれず仕舞となつた。何しろ、それから右三年の後《のち》、慶慮四年の江戸城開け渡しといふ時に、御藏《おくら》の金《かね》がたつた三十六萬兩、即ち今の三百六十萬圓程しかなかつたといふのだから、實際幕府も情けない身上《しんじやう》であつたに違ひない。で金のかゝる割には、苦情の多い、荒向《あれむき》の利益が少ない開墾の、一時|止《や》めになつたのも無理は無い。
その翌年、すなはち慶應の三年、僕の廿|歳《さい》の年には所謂《いはゆる》時事益々切迫で、――それまでは尊王攘夷《そんわうじようゐ》であつたのが、何時《いつ》の間《ま》にか尊王討幕になつて了《しま》つた。所謂危急存亡の秋《とき》だ。で私《わし》も、それ迄は奧儒者の小林榮太郎《こばやしえいたらう》なる先生に就いて論語や孟子の輪講などをして居たが、もうソレどころで無い、筆を投じて戎軒《じうけん》を事とする時節だから、只だ明けても暮れても劍術を使ふ、柔術を取る、鐵砲を打つ抔といふ暴《あら》ツぽい方の眞似ばかりして居た。
する中《うち》に、其年の「慶應三年」の十二月二十五日に所謂薩州邸の燒打《やきうち》といふ事件が起つた。それは何故《なぜ》かと言ふと、其の夏頃から市中に盜賊が流行《はや》つて仕方がない、それがどうも長い刀を差して、五人、七人、十人十五人と徒黨を組んで押し込んで來る。大きな金持のところへ入《はい》つては、百兩二百兩といふ金をふんだくる。中には鐵砲を擔《かつ》いで入《はい》る者もあるといふ風で、深川《ふかがは》の木場《きば》や淺草《あさくさ》の藏前《くらまへ》で、非常に恐れた。
で、さういふ者を檢擧する爲に、新徴組《しんちようぐみ》といふものが出來た。その中《うち》には、彼《か》の有名な土方歳三《ひぢかたとしざう》や、近藤勇《こんどういさむ》といふやうな人も入《はい》つて居た。そして其の支配が出羽《では》の庄内の酒井左衞門尉《さかゐさえもんのじやう》。それが
前へ
次へ
全6ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
塚原 渋柿園 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング